何だか不運な女 10 「ドライブ・マイ・カー」の霧島れいか、三浦透子、他

 

近年の日本映画ではぶっちきりの「不運な女」達が観られます。

ナニをもって「不運」というかという議論は多々ございましょうが、数々の世界的な映画祭の実績(カンヌ映画祭脚本賞始め全米の三大批評家賞)から言っても、これほどの不運な人生を送らなければならない女いるかしらってレベルです。しかも日本女性の演技陣も出演しているにもかかわらずおそらく新人の三浦透子さん以外は日本の映画祭で演技賞を取る事が不可能になっている、それが先ずは一点目。で、映画にはアジア系の国際的なキャスト(韓国や台湾出身の女性たち)が出演していますが彼女たちは幼少期から成人男性からの執拗な攻撃を受けており、それが各々のサスペンスドラマとして観る事が出来ます。アジア系の男性は自分と同年代や年長の成人女性たちに幻滅するあまりに利発な幼女や少女を取り込んで教育しようとする輩の犯罪が何故だかすぐに出てくるんですが、それにより男性自らが自滅するパターンが通常です。映画では説明ではなく詳細な描写としてシーンにありますので注意深く観てくださいね、小さい女の子をお子さんやお孫さんに持つ方々。

妻が去って行く前の家福の抱えた危機

舞台演出家であり、また自らも舞台俳優でもある家福(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)とは付き合って合計20年になるカップル。音も女優でしたが演技を止めてTVドラマの脚本家として活躍中という順風満帆な生活でしたが、二人の悩みは子供に恵まれない事。二人で以前に亡くなった娘の3回忌を行ったりするのですが、ぶっちゃけこの仏事自体が異様な演劇に近いんでは・・・と仮定すると妻の音の心理状態は実のところかなり危ういと言えましょう。そしてオープングにある夫婦のピロートークで延々と語る音の構想するストーリーも「異常」。二人とも裸なんで、音の語る物語には性的な隠喩が隠されていると考えるのが常套なんでしょうが、おそらく内容は音の高校時代の実話であり、主人公である女子高校生は恋い慕う同級生男子自身以上に「彼の両親の揃っている平穏で幸せな家庭」に強く憧れていた・・・という告白でもあるのです。ヒトの恋愛感情には二人でするセックスだけではなく個人が家庭を持ちたいという夢を具現化できる相手を求める気持ちが相当なウェイトを占めている、という傾向自体は家庭人にとっては大いなる救いになります。ただし、自分の過去の子供時代の写真を貼って流産もしくは死産した娘の法事を真剣に執り行う妻のいる家福には相当なプレッシャーです。

 

そして家福夫婦の抱える葛藤や妻音のぶっ飛び方、というような危機は一見仲良しな夫婦ほど陥りがちなケースなんでそれをかなり的確かつドラマティックに描いたのが「ドライブ・マイ・カー」の秀逸な部分であります。コレを日本映画の快挙って言うとなんか嫌な気分になる日本人の夫さん方は居るかもしれませんが・・・快挙は快挙だから。

妻が去った後の家福と「映画を鑑賞する観客」に降りかかる様々な危機

妻が突如死去して2年後に家福は四国で行われる国際的な演劇祭に招聘されて、演出家としてチェーホフの「ワーニャ伯父さん」に取り組みます。とりあえず許されるネタバレとして記述しますが「ドライブ・マイ・カー」では映画全体を通してこの戯曲が採り上げられていますが、演劇好きな人々なら本来の「ワーニャ伯父さん」とは似ても似つかない物語になっているって直ぐに判るようになっています。映画当初から家福が自分の車中で聞く妻の音が朗読する「ワーにゃ伯父さん」のテープでも全く異なって居るからさ。そうです、かなり難解な映画なんですよ、おそらく原作の短編小説以上に。そして家福が四国に着くと彼が手がける芝居の演技陣であるコジタカツキ岡田将生)、台湾からの女優ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)、韓国のろうあ者の女優とその夫である演劇際のスタッフ(ヨー・リム・パーク)、家福の送迎を担当する若い女性ドライバーのミサキワタリ(三浦透子)が待ち受けるのでした。

 

演劇とは何か、以上に「何かに遮断され隔絶された芝居稽古の状況の中で何事がおきているのか」の感情に襲われて翻弄される・・・家福と(やっぱり)観客

そうです、ぶっちゃけミステリー映画だと思って観るのをお奨めします。あと映画を観た観客の中で映画物語の需要な登場人物であり韓国からの女優とその夫のプロフィールがネットでも検索できないのを不思議に思うか、私のように戦慄を覚えるかで映画の魅力のキモのとらえ方が違ってくると思われます。しかしながら芝居の主な演技陣がコジを始めとしてストーカー被害に遭って居るっぽい設定がまるで1990年代に日本でブームになった新本格ミステリー小説の世界です・・・当時は非日常的なエピソードが続く論理を積み重ねた上での新本格ミステリーと喧伝されていた記憶があったのですが、活字ではなく映画で表現されると、日常に潜む恐怖を疑似体験させられる気分になるんですが何故なんでしょう。・・・なんだか村上春樹の原作小説の映画化だという事を微妙に忘れてしまいそうになりますが、映画の話に戻りましょう。

ミサキの語る過去は総て嘘がない故に・・

そうです、音にしろミサキにしろ韓国からやってきた女優さんのオーディション時の即興演技にしろこの映画に登場する女性たちの語る自らのエピソードについては殆ど嘘をついていないのが恐ろしいのです。高校卒業後に北海道からやってきたミサキは母と娘のずっと二人暮らしで、死んだ母親に対する愛憎と悔いの感情に囚われてるのが、家福との会話を通して伝わってきます。韓国の夫婦に夕食を招待された時のミサキのキムチの食べっぷりがすさまじく、それだけでも名シーンになりそう。自らも完璧主義だったけど嘘の多い人生だったというミサキの母親の躾の仕方といい、ミサキの母親が急に人格が変容している様を娘のミサキが心底魅入られたように「幼い私にとっては幸せな時間」と呼び、雪の北海道の寒村で再現してみせる・・・でもホラーではありません。ミサキは母親が何処の生まれなのかという事実に成長するにつれて理解していったので、もうちょっと彼女が大人になるまで母親と長く生活していきたかったなあぁ、という事を家福に訴えていくうちに彼女自身の感情を解放されてそれが映画のクライマックスになってます。そんなのがクライマックスで良いのでしょうか?・・・でもその後の急転直下のエピローグがすさまじいのでしょうがないのかも。

映画のラストもやっぱりミサキ

ミサキは映画の最後の最後に家福から貰ったのか、それとも家福の車の憧れて自分で購入したのか、赤いスポーツカータイプのセダン車を運転し、招待を受けた韓国夫婦が飼っていたと似た犬種の大きな犬を乗せて韓国で生活を始めた様子で終わります。これは彼女が家族というものを決して諦めないっていう強い意思表明でもあるのでしょう。

 

 

いろいろとお説教がキツい人達 3 「恋人達の予感」

 

未だに邦題のあり方に揉めてる名作映画ですが

邦題の付け方としては最上の部類に入ると私自身は公開当初から思っていたんで何故に大揉めしたのかが今ひとつ理解出来ません。一つには男女の間に友情が存在するか否かの議論がこの映画登場以後日日本中に広がった所為もあるのでしょう。それも踏まえるとますます「恋人達の予感」でいいじゃないって確信が近年増しています。ちなみに「When Harry met Sally」って原題についていえば、私には未見の映画なんですがジョンとメリー [DVD]というのがあり、もうHarry mets Sally ってのは出来ないから when と met もつけとけってゆう当時のスタッフの妥協案だった気がしています。

 

劇場公開から30数年、日本の映画鑑賞環境、一部の観客の態度の硬化ぶりが心配になるリトマス試験紙かも。

ネットでは一般の映画ファンによる講評ページが中心になってソレを参考にDVDだとか配信を選び視聴する習慣になっている方も多いかと思います。「恋人たちの予感」の日本公開は1988年、当時としては異例の2ヶ月の長期ロードショーを果たし、映画の有名になったハリーとサリーがランチをしたNYのカッツデリカテッセンは世界的な観光スポットに。制作スタッフもその後の1990年代ハリウッド映画を代表する映画人達(監督のロブ・ライナー、撮影のバリー・ソネンフィールド、そしてこの映画の最大の功労者にして先年惜しくも亡くなった脚本のノーラ・エフロン)がそろい私はイマ観ても話も映像もテンポの古さを感じません・・・が、現在の3/40代、50代の公開当時やその後の幾度となく繰り返されるTV放送をも観ることなく映画「恋人たちの予感」をスルーしていたと思われる方々のレビュー内容はかなり冷淡なもので、公開当時も現在もおそらく独身の彼らにとっては理解しがたいあるいはどうも熱狂しがたい婚活教材になってしまったんだという驚きがありました。しかしながら私の物心つく頃から、社会現象になるまで大ヒットしたハリウッドの恋愛映画といえば、タイタニック(2枚組) [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]ある愛の詩 デジタル・リマスター版 50th アニバーサリー・エディション [Blu-ray]と並ぶ作品なのが「恋人たちの予感」。ついでに言うとローマの休日 デジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション(初回生産限定) [Blu-ray]も含めて、カップルが別離せずにくっついたまんまエンドマークを迎えた映画は「恋人たちの予感」だけ。んで、婚活中のベテランシングル達にはサリーとハリーはハッピーであると認識していないなって予感が彼らのレビューコメントを読んでつい頭の中をよぎりました。

男女の間に友情はあるか?・・・をしつこく問いかける日本人

恋人達の予感」ってタイトルを掲げているんだからさ、って私1990年代間中もずっと思ってたんですが。この映画のヒットのおかげで「男女の間に友情は存在するか」な話題が女性雑誌の対談や恋愛コラムをはじめ、日本の未婚男女の飲み会でも多々繰り広げて20世紀を終了したのが日本の婚活事情でした。それよか男女交際とは何時の段階でスタートするのかという課題にせめてシフトしろよって気がします。だいたい映画の脚本構成の骨子がアナタとアナタはどの段階で恋愛に至ったのか」というプロセスを説明する、という形で成立しており、ハリーとサリーだけでなく当時の米国におけるアジア系やヨーロッパ系のシニア層の夫婦のなれそめのインタビューが入っているのです。監督のロブ・ライナーは「似非ドキュメンタリー」というジャンルを確立して有名になったヒトなんで「恋人達の予感」でも堂々と採用できたんではないでしょうか。映画を鑑賞し終わった後、どこの国のヒトでも「出会いって困難を極めるもので、お見合いでさえ貴重でドキドキするものなんだなあ、在る意味自由恋愛よりも幸運な場合がある」という感想を持つのではないでしょうか、特に男性陣はっ。

ハリーが「自分に女友達ができた」事実に驚いて周囲に触れ回る不可思議

そうです、同じハリーでもハリー・ポッターと賢者の石 (吹替版)の主人公ハリー・ポッター(ダニー・ラドクリフ)が同級生のハーマイオニーエマ・ワトソン)と仲良くなるのは当たり前なのに。でもC・イーストウッドのハリー・キャラハンがダーティハリー3 [Blu-ray]に登場する女性警官のタイン・デイリーと戸惑いながらタッグを組むのは1970年代後半だし各々各々のハリーには三者三様ごとの時代状況や世代の違いはあるのでしょうが。で、「恋人達の予感」のハリー(ビリー・クリスタル)とサリー(メグ・ライアン)が始めて出会うのは1977年。互いに卒業間近のシカゴ大学から一緒にNYへ引っ越しに行く為の長期ドライブです。ハリーには大学に後輩の彼女を残しサリーはハリーの友人の彼女、だから相互扶助のパートナーとして対峙する。彼らは決して同い年ではありません(修士や博士課程か学卒かで考慮しても)ハリーの方が5歳以上は年上のはず。そして次に彼らが出会うのは1982年のNYでハリーはサリーと友人の彼氏に大学時代からの彼女と婚約が決まった事を半ば自慢しサリーに不興を買います。三回目は1987年でハリーは離婚直後、サリーは彼氏との関係が自然消滅の危機に直面・・・ここいらへんからようやくハリーとサリーは互いに落ち着いて話し合おうという態度に徐々に言動が変化していきます。それまでの彼らの会話は互いに一方的、NY行きのドライブの間でも好きな映画の話題で揉めて、サリーの有名な台詞「カサブランカのバーグマンがボガードと別れたのは飲み屋の奥さんになりたくなかったから」が登場するのでした。サリーという女は一貫してクソ生意気と思うか機知に富んで面白いコだと思うかで男性の評価が分かれるタイプ。1980年代の米国であっても(もしくは現在でも)ひょっとするとサリーのような女性は男性の方から言い寄られて交際を始めるのがあまり無いのかもしれません、特に年齢が若い段階では。

1987年から1988年にかけてハリーとサリーは友達としてデートをひたすら重ね、その間にサリーの元恋人が結婚しても、ハリーとサリーが1987年に再会時大げんかを始めた時に一緒にいた双方の友人(キャリー・フィッシャーとブルーノ・カービー)がその後に電撃結婚しても、気にせずにダラダラと一緒に食事したりお喋りを続けます。その間ハリーは一貫して「女友達が自分に出来たという事に驚いている、一緒に散歩して歩いているだけで楽しい、セックスしたいと思う暇がない」のような内容を男の仲間に言って回るのです。要するにハリーは話しているだけで楽しくかつ自分に拮抗する知性や力を持った女性にはセックスアピールを感じないと考えているみたい・・・映画公開当初から現在でも男女の間に友情は存在するか?という議論がひたすらに白熱する日本では女性に異性を感じない男性こそずーっと増加傾向なのかもしれません。

ハッピーエンドな恋愛映画を望むなら・・・ラストは?が常道か

それは「恋人達の予感」が良いお手本になります。日本では2000年代に冬のソナタ 総集編~私のポラリスを探して~ DVD BOXのヒット以降、男女がイチャイチャする場面がかなり長くないと面白がらない人々が続出し、ハリウッド的な緊張感のある男女のデートや丁々発止なんて興味無い独身男女が一斉に韓国映画やドラマによりシフトしていきました。ハリウッドやフランス映画等の男女は日本の人々には互いに自己主張が強いもしくはセックスの予感が強すぎるのかもしれません。が、「幸せなカップルが劇的に別れる過程を描くのが恋愛ものの醍醐味でしょぅ」の趣味が強い製作陣からすると、韓国に多いタイプの恋愛ドラマやlove comedyは結末でひっくり返るリスクが高いという事も抑えておきましょう。「告白と承諾」のシーンはダブルミーニングも可能なので双方のグループ揉めたときに落としどころとして便利かもしれません。

 

 

 

お祓いされる女 10「花束みたいな恋をした」の有村架純

 

日本の恋愛映画とは観客に対しての啓蒙映画なので・・・

ブコメディは決して完璧なものではない。首をかしげてしまうものが必ずある。どうやら最近の女性雑誌における映画やドラマの批評は、青字体の文章を入れておかないと雑誌読者からも批判炎上がくる状態のようです。一般ブログサイトのブログでも気をつけないと読者ユーザーからの攻撃が来てブログを抹消させられるケースはあるようなので特に日本映画では気をつけないといけない作品がヒット作ほどあるやもしれません。なんで「花束みたいな恋をした」も職業婦人の映画のカテゴリーに入れて紹介しようかなと当初計画していたんですが・・・とにかくお祓いだけやってみます。

ハッピーエンドは恋愛の終焉と恋愛開始以前が日本の恋愛映画の常道

これが大人の恋愛映画の極北といわれる浮雲 【東宝DVD名作セレクション】ではヒロインが死んで終わりますから、悲恋でないと恋愛映画ですらないとうのが日本の多くの映画観客の認識、特に女性の場合は半数強の割合で存在しているのだと日本の若い独身男性(映画製作を目指す方々)は意識しておきましょう。2000年代日本では映画だけではなく出版やTVドラマでも世界の中心で、愛をさけぶが社会現象としてヒットしましたが一方ではネット界で有名になった評論家の宇野常寛がこれら難病恋愛モノのヒット現象について主に男性のエゴとフェミニズムの観点からの疑義の意見が出ました。それから同時期に「ロミオとジュリエット」の話を取り上げて恋愛物語の役割の終焉の可能性について言及したコラム例が掲載されている野口悠紀夫(この人は国際的に評価されている経済学者でもあります)の文章指導の新書がベストセラーになった事もあります。それだけ恋愛映画や物語についての日本人の態度はあらゆる点からみて公序良俗に反する危険性を孕む常に監視対象でもあるのです。そして映画「世界の中心で愛を叫ぶ」でも脚本家の一人として参加した坂元裕二が再び脚本を手がけ「花束みたいな恋をした」では初回公開時年の最長劇場公開作品になるほどに大ヒット映画になりました・・・ホントに、大ヒットで、そして映画を巡って日本のネット議論はどうやら荒れ模様。

 

これが少し以前の昭和平成時代のカップルだとデート時にはハリウッドやヨーロッパの映画の観賞したし、それが駄目ならジブリに代表される一部のアニメ映画を選んで鑑賞していました。そうやって未然に抗争を防いでいた感があります。(あとはごく稀に日本のヤクザ映画やヤンキー学園映画を一緒に鑑賞した交際の思い出を互いに語る両親を持つ若い方もいるかな)日本だと飛車角とか花と龍の時代から恋愛ストーリーには仁義なき戦いが事欠かないんだよね。それと愛と誠とか。

恋愛映画についてのプロによる評論文ならば

日本の映画業界は事前に一般人を対象とした試写会を行っており、そこ観客へのアンケートを「資料」として参考にしながら映画評論家は執筆していると考えられます。ですから商業媒体の映画評論では書き手だけではなく試写会参加者の総意が含まれていると心得ておいた方が良い。「花束みたいな恋をした」の映画が好きで数回鑑賞した映画ファンの中にはこの映画のレビュー内容に反論したい、なんかソレ違うだろっ・・と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなアナタには試写会にも参加しなよってアドバイスしたいです。はてなブログでは「花束みたいな恋をした」への熱いレビューが一時賑わったのにその数々のブログをどうやら本人たちが削除したらしい形跡があったようですが、はてなユーザーの彼らは試写会における他の女性客の反応やら劇場での他の観客の反応も思い出しながら「論争」すれば心折れずに削除したくなくなったかもしれませんよ・・・それと思いの丈をぶつける為だけでなくちょっとだけでも良いから金儲けしたいという気持ちもブログを続けるのには大事な要素かな。

ところで「花束みたいな恋をした」における教訓と啓蒙とは?

先ず日本の恋愛映画における定番ストーリーともいえる「若い未熟な男女が出会って恋に落ちやがて互いに限界を感じて破綻する(別離も死別も含む)で終了」を踏まえている故に大ヒットした映画であるこの作品。はっきり言ってこのパターンをいつまで製作し続けるのか?何にも観客が得るとこが無いじゃんな感想を抱くヒトも多いでしょう。既に寝ても覚めても [Blu-ray]のような恋人たちの関係性の変容はともかくカップルの継続としては成就する映画も日本だけでなく世界的なヒットもしているのですから。しかしながら主人公の山根麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)の二人が目指すquality of lifeは「寝ても覚めても」の主人公達よりも現代的でグローバリズムの影響を強く受けています。麦のイラストレーターとしての挫折や就活の経緯は、どこまでも勝利者を目指す態度で一貫しており何かしら実現できなきゃ憧れでも夢でもないという若い男性の成長譚として観ることも出来そうです。一方の絹の方はより複雑で女性が仕事のキャリアや家庭以外の社会で自己実現を果たすのは同年代の男性と比べても困難な状況という側面が描かれており、二人の先輩にあたる同棲カップル(韓英恵と中崎敏)の破綻のエピソードと重ね合わせると、女性の観客の中には「交際しているだけで一緒に住むって恋愛の終りじゃん」と感じるヒトもいそう・・・そうです、特に儒教や仏教の盛んな国では婚前で一緒に暮らすのはけしからん女性を利用するだけ、て考え方が根強い事も若い方々は頭にいれておきましょう。ただし、それでも麦と絹は大学卒業から社会人の基礎を作る5年間を一緒に暮らして、話し合って別れる事が出来た。麦と絹が別れ話をしに訪れた二人の思い出のレストランで出会う年下の大学生カップル(淸原果耶と細田佳央太)に伝えたい事があるとするなら、きちんと一定の期間恋人と付き合っていけば、たとえ別れても将来誰かと結婚して家庭と仕事の成功を手に入れる能力が身につくという事実でしょう。昨今のハリウッドでもラ・ラ・ランド 3枚組/4K ULTRA HD+Blu-rayセット [4K ULTRA HD+Blu-ray]なんかありましたしね。険しい道のりですが、恋愛というチャレンジは慎重にして吉って事。

 

 

 

 

2021年に劇場で観た映画 1

 

ここ数年、私的にベストワンの映画推しをしていなかった

どうしてかと言うと、私自身の人生にいろいろと転機があったからです。先ず実母がガンで亡くなりました。その後も息子の進路やら夫の転職やら悩む事、パニックになることが多々あり、映画界のトレンドにまで気を配ることまで頭が回らなかったのが特にコロナ渦以降には顕著だったからです。だから2021年にも私的なベストワンは無いかも。

 

劇場版チェブラーシカ 特別版 [DVD]

劇場版チェブラーシカ 特別版 [DVD]

Amazon

一月の早稲田松竹に観に行ったところ、観客全体が中年以上の男女であふれかえっており、最近ではこういう映画を観る若い人は減ったのか残念て思いました。それ以上に観客男女とも髪型のボブ(おかっぱ)率が8割以上という点もひょっとしたら異常だったのかもしれない。かくいう私もボブ頭です。チェブラーシカが女の子で、お猿ではない何か判らない生き物っていう設定に冷戦時代のソ連の人々の世界についての常識を程度を知りました。そしてチェブラーシカ三部作を通して、インブラが整備されるにつれて共産主義の計画経済の役割が終焉していく過程がうかがえた気がしてなりません。一緒に伴映されていたミトン [DVD]他の短編アニメ映画も可愛くて好きでした。

何か無いかなと映画館のHPかなんかで見つけて面白く観たのがパリの調香師 しあわせの香りを探して。予告編観たかぎり感じが悪くない・・・だけで決めました。主演のエマニュエル・ドゥオスさんもリード・マイ・リップス [DVD]で知ってたしね。

 

約束のネバーランド」は予備知識があまりなく、息子が観に行きたいといっていたので行きましたがかなりハードな内容のよく出来たファンタジーファンタジーって結局どんなジャンルなのか私にはSFなんかよりよっぽど分かりズライのですが、S・キングのモダンホラーよりは取っつき安いのかもしれない。アニメの銀魂 Blu-ray Box シーズン其ノ壱(完全生産限定版)は実写版よりも疲れました・・・先行のTVアニメ版のファンのどうだったんでしょう?おそらくかなりタフな方々だろうから大丈夫でしたよね。私はもういい年になったせいか同じく映画観て疲れるならレベッカ(字幕版)の方が良いかな。

 

公開時期に結構話題になった日本人の多くが大好きなタイプのホームドラマ私は観に行った際に「これは特に映画好きではないけど、感動する話が好きな人々、特にシニア女性の為にお奨めせねば」という義務感にかられ、大阪の公開が開始される直前にSNSで紹介しちゃいました。私映画終了後にもワンワンと泣いてしまいましたもんね。それと反対にミナリ [Blu-ray]はホッコリとした幸せな気分になったホームドラマ。爽やかな感動を呼ぶって良い気分で劇場を出られるのでコレはコレで良いの。パーム・スプリングス [Blu-ray]は久しぶりに観たドタバタ系のlove comedyでした。でも先行する2000年代までのサブカルチャー的なハチャメチャな恋愛映画と比べるとだいぶ判りやすい気がしましたね。そして現実的な恋愛とキャリアをどちらも追求するダコタ・ジョンソンの姿に説得力があったのがネクスト・ドリーム/ふたりで叶える夢 [Blu-ray]・・・アメリカの実情はやはり一日の長があるのかな。あの頃。に登場する青年たちと比べても過酷さの質が違う感じがします。彼らよりもっと昔の青年役のいちごブロンド [DVD]に登場する主人公のジェームズ・キャグニーの場合は30歳にしてリタ・ヘイワースに恋して振られて、別の彼女(オリビア・デ・ハビタント)と結婚して投獄されて、40代半ばにしてやっとこさパパになるまでの映画なのにさ、どうも19世紀あたりでも人生生き急ぐ必要は無かったみたい。

そして「花束みたいな恋をして」を鑑賞してしばらくはこんな調子で映画館に通えていけるのかな、と思いきや東京オリンピック前の厳戒態勢で緊急事態宣言が東京で発令されて劇場へ足を運ぶのが、一ヶ月間空いてしまいました。

 

 

いろいろとお説教がキツい人達 2「レベッカ」について

 

映画製作は1940年、主人公のヒロインの名前は・・・

レベッカとは言いません、それどころか「私」で名前で呼ばれる台詞も一切なし。主演のジョーン・フォンティーンはさすがに1935年に映画デビューですが、初主演作なので「役名のない主役を張った女優」としてギネス選定されててもおかしくないんでは。でもそれ以上に前妻レベッカを失ったトラウマに苦しむマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリビエ)の姿に私は驚きました・・・オリビエ、若造過ぎないかっ?、ちなみにジョーン・フォンティーンって風と共に去りぬ [Blu-ray]のオリヴィア・デ・ハヴィタントの妹てのも有名です。少し話は逸れますが、私自身ここ数ヶ月前からモンゴメリー・クリフトってタイロン・パワーのそっくりさんにしか見えない」という悩みに取り憑かれておりまして、前世紀のハリウッドスキャンダル数々について頭がついグラグラしがちになっております。2021年の初めにようやく渋谷の映画館で観たんですが、場内はシニア男性でいっぱい。特にシニア層だけが御用達にしている名画座でもないのでヒッチコック作品でもいかに「レベッカ」のファンが多いかということでしょう。

 

 

亡くなった女主人レベッカを崇拝する女中頭

というのが、映画のあらすじを語る時の掴みであり、罠でもありますから注目して下さいね。以前ここのブログでも取り上げられていたドキュメンタリーのセルロイド・クローゼット [DVD]でもヒロインにプレッシャーをかけ続けるダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)がレベッカの部屋のクローゼットにしまわれたの洗練された美しい寝間着や下着類を未だ小娘みたいなジョーン・フォンティーンに見せつける、という名シーンを取り上げておりました。この映画に登場する肖像画や衣装、小道具に至るまでもの凄くゴージャスなのが、却ってThriller/怪奇を誘います・・・でもそれがホントに「セルロイド・クローゼット」に登場するレズビアンの女性の言うとおり女性の同性愛の発露なのかどうかは観てのお楽しみです。私としては映像の刺激としては確かに同性愛描写チックなものは在るやもしれませんが、映画の物語にはレズビアン要素はほぼありません、と申し上げておきます。

ヒロイン「私」に足りないもの「レベッカ」に足りないもの

映画の中ではレベッカは死去するのに「私」の方は生き残るのが「レベッカ」の中における最大のポイントとも言えるので、コレはネタバレでも指摘しないといけません。あとパラサイト 半地下の家族(字幕版)に登場する社長夫人(チョ・ヨジョン)や劇場版 ダウントン・アビー [Blu-ray]の貴族一家の長女(ミシェル・ドッカリー)は20世紀や21世紀に生きる女性たちなので当然20世紀初頭の英国が舞台の「レベッカ」の私や死んだレベッカには無い能力や強い自信を持っています。英国の社会学の研究では19世紀の英国では上流階級の男女がしばしば彼らの召使いに管理される傾向があったという有名な研究があるくらいで、レベッカや私のような大金持ちの妻が家事能力や美術芸術の才能があっても、召使いに日常を徹底的に管理されると自信喪失に陥ったり、召使いの方が長年使えてきた女主人と自己同一化したあげくに女主人を意図せずに殺してしまい、おかげで窮地に陥りヒステリーを起こすといった事があったかもしれないね。マキシムにとっては前妻のレベッカよりも「私」の方が彼と一緒になって遊んだり夫婦で田舎暮らしのバカンスを楽しんだりしてくれた事で少しだけ勇気をもらった。「私」がレベッカより強い女性であった点はそこだけだったりします。レベッカは映画でも徹底的に不在であるが故に残酷なまでに悲運の女性。でも犯罪被害者の実像に経緯を払う表現としては極めて真っ当だとも思います。

おそらく映画史の中でも最強レベル、稀代の悪女が登場する映画

21世紀になってもコレは当分変わらなさそう。最近ではリメイク版のサスペリア [Blu-ray]に出てくる女性達ももの凄かったですが、彼女らは自分達の行動は男性にとっても良いことシアワセな事と堅く信じているカルト狂信者の悪女タイプなので、「レベッカ」に登場する悪女とは違います。原作者のレベッカデュ・モーリアはさすがに女流作家なので本当に性悪な女はどういうものか小説の中で描き尽くしていたんだと確信してます、原作小説読んでないけど。それをプロデューサーのセルズニックがヒッチコックを英国から招いて映画にしました。女性の悪徳の中で最も危険なのは性欲か?物欲か?権力欲か?自己中心的性格?という観点から考えていくと、この手が在ったのかスゲえ・・・と映画観た後に唸りました。もっとも私と一緒に劇場で鑑賞していたシニア男性達に私のこの感想を告げたら怒鳴られて説教されるとは思います。

日本では数年来ミュージカル人気が定着してきました。

演劇全体の人気も高まってはきつつありますが、それもミュージカルの人気が引っ張ってきた部分があります。そのせいかどうなのか、世界初の舞台化を何故だか日本人たちが果敢に試みるという現象が起きています。なので「レベッカ」は名画としてTV等で放送するだけでなくミュージカルとしてたびたび公演しています。私は今回映画鑑賞してみて、確かにミュージカルに向いてるよね「レベッカ」は。その方がきっとサスペンスより主人公男女の機微は分かり安いかも、て印象を強く持ちました。ミュージカルは取っつきにくくて苦手だけどさすがに気の弱い若い人には「レベッカ」薦めずライなあぁ・・とお感じなるシニア層のヒッチコックのファンの皆様はミュージカル版の「レベッカ」もご覧になってみては。何しろ「レベッカ」という物語は好奇心の強い小中学生のお嬢ちゃん方からすると「ダンヴァース夫人よりも登場する夫マキシムをはじめとする若い男性達の大半の方が気持ち悪い気がする」という感想を持つやもしれませんから。21世紀を生き伸びるキッズには年齢の発達に応じて映画も含めて繰り替えし鑑賞させたいかなって。こうなったら私はもう少し暇とお金ができた段階で「レベッカ」のミュージカルも観てみたいです。(ガチでいろいろチェックしたいかも)

それぐらいはコワい映画でした「レベッカ」は。

 

 

 

 

 

 

いろいろと説教がキツい人達 1「勝手にしやがれ」について

 

ポリンキーポリンキー、映画勝手にしやがれの秘密はねっ♡

今ではポンコツ頭の私にも少しは判ってきちゃった。年齢を重ねると良い事もあるのものだね。大昔、20歳過ぎたばかりの頃に現在では閉館した日比谷の映画館で「勝手にしやがれ」と気狂いピエロ [Blu-ray]の二本立てという荒技の映画鑑賞修行をして(しかもアルバイトの予定がなくなった日曜日に思いつきで行ったの)、映画よりその劇場で観にきていた皆お洒落で互いにモノトーンの装いをしたカップルの生態について有意義な観察をした思い出があるんだ。が、それでもやはり20世紀における文化的な大事件、ハリウッド映画に限らず様々なコンテンツに半世紀以上にわたって影響を与え続ける傑作は凄いと改めて驚嘆。そういえば今回「説教がキツい人達」てカテゴリーを作ったのだが、方針としては映画製作者達が観客に注意喚起したい在る事柄について訴えたいばかりに、結果的になんだか説教する事になってしまった映画について取り上げていきたいのさ。だから今後ともおそらくは傑作の映画についての紹介になると思う。

 

ポリンキーポリンキーゴダールの戦略(才能)の秘密はねっ・・・

映画冒頭に主人公のミシェル・ポワカール(ジャン・ポール・ベルモント)がずぅっと早口で画面に向かって独りごと言いまくるとか、それまでの映画の常識を打ち破っただとか・・・私は若い頃からいろいろ説明をきかされていた。それが先日TV放送でお昼の支度しながら横目で観ていたところ、ポワカールが拳銃の空砲を鳴らし、それが原因で交通事故が起きて死者数名が発生したというシーンであると簡潔な演出ではっきりと伝わって気分がスッキリ、その後は一緒に昼食を取った夫と息子そっちのけで見入ってしまったよお。ポワカールの罪といえばそれが一番大きくてしかも彼は貧乏な小悪党でさえないという設定も皆さん踏まえてからぜひ観て欲しいっ。

ポリンキーポリンキー、ヒロイン(パトリシア)の秘密はねっ。

ミシェルは車の運転を終えると、アントニオ(アンリ・ジャックス・ヒュエット)を電話で呼び出し自分の車を買い換えたいと相談するのだが、全く相手にされない。彼はその後に馴染みの女性というより幼なじみのモデルのリリアンリリアンヌ・ドレフェス)のアパートに寄っておしゃべりをし、街に出てパトリシア(ジーン・セバーク)に声をかける・・・米国出身のパトリシアはおそらくソルボンヌ大学に通いながら新聞社のインターンをしている国際間の交換留学生という設定を踏まえると、ポワカールという人物が一体何者なのかが理解できるとは思うの。お馬鹿な私なのでポワカールはファーストシーンから誰かに追われているのに暢気なヤクザだと長い事勘違いをしていたけどさ。それにポワカールってヤツはパトリシアやリリアンについての貞操感覚について悪口ばかり言ってる男なので、カップルで観に行くと頭の良い潔癖な性格の女性が彼女の場合、映画鑑賞の最中にも文句タラタラだったのかもしれない。私はあの時日比谷の映画館で独りで観に行って本当に良かった、女友達同士で観に行って、ひょっとしたら友達にクレーム付けられたかも。私の20代当時はフェミニズムに違和感があるタイプの女性の方が男性の言動には(映画やドラマの中でも)案外チェック厳しかった記憶がある、私の個人的な体感ではあるけどね。

ポリンキーポリンキー、新聞写真の秘密はねっ。

それは映画を観てのお楽しみだよ!でもポワカール達は写真は見ていないからね。映画後半にポワカールとパトリシアは同じ新聞の同じ犯罪記事を読み驚いちゃう。それからパトリシアは一転して男達から追われるようになったポワカールをかばおうと手助けをし始めるのだ。ポワカールといえば、追手から逃げてはいるものの相変わらずアントニオのグループから無理矢理に新車を買っていくし、アントニオには買った拳銃を返そうと追いかける始末。もしかすると彼はアントニオに拳銃を返すなんて馬鹿な事をせずに家で数日大人しくしていれば、死なずにパトリシアとももっと仲良くできたのかもしれないのにね、まずポワカールはホームレスじゃないしさ。

ポリンキーポリンキーゴダールの映画のお楽しみのひとつはねっ。

それはヒロインのファッションが可愛くてお洒落の参考になることさ。20世紀が終わって21世紀が始まっても変わらない。かつてゴダールの映画に主演したアンナ・カリーナゴダールが衣装を街のスーパーでも調達してきたのが凄いってのを絶賛していましたよ。パトリシアが着ていたコートやフレアスカートはあんまりイマの日本では販売していないんで頭にきますが、Tシャツと厚手のレギンスだったらUNIQLOやらしまむらでも探せるのではないかしらん。可愛いくもなくスタイルも良くない日本の若い女の子が真似をしても似合わないとごねたくなる女性もいるかな?・・・でもイマの20代の女性たちは1980年代終盤の20代オンナより手足長い体型人口は増えているし、よりジーン・セバークに近いはずだ!頑張ってボーダーTシャツとか着てくれたまえ。

ポリンキーポリンキー勝手にしやがれのラストのポワカールの秘密はねっ。

教えてあげないよ、ネタバレになっちゃうからね。でも多少ヒントは挙げておこうかな。パトリシアに尋問してひそかにポワカールを追うヴィダル刑事(ダニエル・ブーランジェ)ときたらポワカールが拳銃で撃たれちゃうだけで満足して彼を助命しようと救急車とかは一切呼ばないんだよ。ただ撃たれたポワールのそばに駆け寄るパトリシアの両隣ににじり寄るだけさ。で、有名なポワカールの声に出来ない叫びとパトリシアのお口をチャックするポーズの意味が一回観ただけで理解できる君なら私は本当に天才だと思う。数回観ただけで理解できる君でも大秀才かもしれない・・・でも21世紀に本格的に今昔の映画を観てきた若い君たちなら、私らみたいな「ヌーベルバーグ」について懇々と説明されたオタク気味のかつてのYOUNGよりはあっさり判るかも♡、是非ぜひ試しに鑑賞してみてね。

ポリンキーポリンキー、最後にポリンキーゴダールの映画の関わりの秘密はねっ。

ポリンキーとは日本で1990年代から販売されているスナック菓子の名前で、新発売当初の宣伝キャラクターの名前はジャンとポールとベルモントの三人組なんだ。ちなみに私はゴダールの映画にポリンキーって名前の登場人物がいるのかどうかまでは知らないんだ。ただしそんなポンコツな映画ファンの私でも「勝手にしやがれ」の理解が増した現在余計な妄想だけが膨らんでいるのだ。もしかつてのゴダール青年が「映画監督じゃなくて作家としてのジャン・ピエール・メルヴィルが憧れ」だったら?・・・ひょっとしたら彼はカイエ・ド・シネマの同人になる直前に既にもの凄く過酷な青春時代を送ったのではないのかな?・・・で、しつこくカイエの同人達に自分の経験を語ったのに、彼の経験と「勝手にしやがれ」という映画の在り方をもの凄くうらやましがる仲間に出会って驚愕した・・・等々。でも妄想を書きすぎると失礼になる気がするのでこれ以上は止めます。で、21世紀の日本ではポリンキーはあるコンビニチェーンのプライベート・ブランドのスナック菓子として販売されています。1990年代より健康的なスナック菓子のイメージですね。21世紀は映画館だけでなく、DVDや映画配信でポリンキー食べながらさくさく観られる「勝手にしやがれ」に期待したいのだっ。

 

法螺ぁぁな女 9「あの頃」の中田青渚、西田尚美、そして松浦亜弥

 

コワ過ぎる昨今の日本映画を「9本」紹介することで完結!!

なんで2021年度劇場公開の「あの頃」で自分で勝手に決めつけ2000年以降の日本のホラー映画選を最後にしたいと思います。他にもオーディション [Blu-ray]とか十三人の刺客<Blu-ray>通常版とか候補があったんですが、「オーディション」はつい最近ではレンタルでも一切見つからなかったし、DVDも買えない鑑賞不可能だった状況、もう一本はリメイクの時代劇で昭和東映版の十三人の刺客 [DVD]もエグさが凄いですから諦めました。ついでに言うと9本にしたかったのは苦痛の9本という意味合いで決してベスト9というわけではなく敢えて言えばDEATH/です9と呼びたいぐらい、それにおそらく「あの頃」のスタッフはこの映画が代表作っていわれるとかなり嫌がる方々がいそうなんで、まあぁ、いいかなって。

10年ぐらい経っただけでは・・・

いまだ当事者たちにはいろんな面で気持ちの整理がつかないんでは、という気が映画終了後にしました。先ずオープニングの主人公つるぎみきと(松坂桃李)が所属するバンド演奏シーンとBGMに流れる「サルビアの花」の歌声の自信がありそうにもないのにどこか暢気な感じが忘れられないし。原作は2014年に出版されたコミックエッセイですが映画のつるぎみきとさんのモデルはあくまでもプロのベーシストできっとご自身で歌っているのでは?(少なくとも松坂桃李さんのボーカルには聞こえませんでしたが違ってたらゴメンナサイ)。つるぎ氏の実話をエッセイストの犬山紙子さんの夫さまが漫画にしたと思われます。で、映画ストーリー紹介しますと、主人公のつるぎはバンドのドラムがリズム感ゼロなのにベースの腕が良すぎてリードボーカルに嫌われてバンドをクビになってしまいます。バンドは駄目だしアテにしていた大学院の試験にも落ち、卒業後の進路のめどがまったく立たなくて凹んでいた矢先、大学友人の佐伯(木口健太)が「つるぎが好きそうだと思って」と渡された松浦亜弥のCDに度はまりし近所のCDショップで松浦亜弥のCDや関連グッツを探し回っていただけで、CD店員のナカウチ(芹澤興人)に誘われ、あれよあれよいう間に大阪の阿倍野で伝説ともいえるハロプロファンサークルの一員になってしまったのです。ここまでの件が私にはまったくもって謎としか思えないイージーさなのですが、面白い遊びを見つけてしまった青年もしくはおっさん達の勢いと楽しみ方がもの凄い・・ホントに大阪って訳分からないって感心してしまいました。つるぎのファンサークル加入に際にやたら絡んできたのが中核メンバーのコズミン(仲野太賀)なのですが、彼がもう一人の主人公であり、物語後半における悲劇のヒーローでもあるのです。

日本の若者にとってのファムファタール(宿命の女)がいっぱい

日本映画の男性の主人公にはファムファタールにあたる女性という存在は昔から稀少なのですが、疾風のように登場してつるぎやコズミン達の運命を激変させる女性が数人登場します、とはいってもロマンチックな恋愛要素がない・・のが諸行無常感を呼び、私にはドラマチックで面白かったです。近年恋愛青春映画の旗手として注目されている今泉力哉監督の映画だと思うと複雑な気持ちに陥るファンは多いとは思いますがっ。

まず一人目の女性はハロプロサークルの中でただ一人彼女持ちのイトウ(コカドケンタロウ)と一緒にサークルに顔を出す靖子(中田青渚)。イトウから靖子さんを取り上げようとする謎のストーカーに追われるようになった段階で段々と楽しいアイドルサークル活動に影が差しやがてサークル崩壊のきっかけになるのでした。その経緯が語られるのもコワいですが、出演キャストの中では40代と思われるコカドさんが圧倒的にサークル内でも小僧然としていて10代の中田さんを連れていても情けない学生カップル振りがとにかく板に付いて自然なのに驚きました。ストーカーに靖子さんを諦めてもらうのにコズミンは奔走するのですが同時に「靖子はイトウではなく自分とつき合うべき」と主張するなど、些か図々しい・・・でもそのコズミンの姿が痛々しく変化する終盤近くには震えます。私仲野太賀さんは淵に立つで始めて存在を知ったせいか、かなりとんでもないエゴ丸出しの腹黒い演技でも、シニア層が「今どきの若者にしては珍しい何か感心なところがある」て思いそうな日本の古風な兄ちゃんらしさが、やっぱり強いなって気がしました。だから彼が貫く「青春時代は恋愛に賭けるモノだっ」な姿勢が打ち砕かれていく様は辛いかもしれません。先行する日本の青春映画では キッズ・リターン [Blu-ray]を思い出しますが、コズミンを巡る女性たちは皆優しいのに彼を救うことだけは誰にも出来ないのが哀しいですね。

片やつるぎの方はというと、大学の後輩(片山友希)に軽く失恋するぐらいですが、それにしても松浦亜弥の存在を知り彼女の握手会で本人に会っただけで黄金の記憶として舞い上がってしまうつるぎのような青年の場合だと異性にときめいても偉大な先達アーチストとして賞賛と羨望を強く感じ過ぎるタイプなのでした。おまけに音楽の仲間内ならまだともかく松浦亜弥のコンサートで偶然一緒になった高校教師の馬場(西田尚美)とアイドル談義をしているだけで、勇気もらっちゃった俺も頑張ろうってハッピーになるぐらい頭の中はどこか音楽中心、やりたい事中心です。一日知り合っただけの女性に運命を少しだけ変えてもらって独り感謝する・・・どうも日本の男性にとってのファムファタールって薄くても良い気がしてしょうがないんですが、駄目なのかしらん。

21世紀にもなった大阪で行われたアイドルファンの若人たちの「講」

そおぉ・・なんですよ、ディープな日本文化に興味のある皆さん。私は当時の参加者大喜びで大阪の阿倍野で楽しく開催されていたという事実に心を打たれ驚きを覚えてしまいます。メンバーのロビ(山中宗)や西野(若葉竜也)らも含め彼らにとっては昔はよくTVでやっていた内輪のプライバシー暴露のバラエティーやら若者向けのラジオ番組の公開放送の物まねに近い、ショボいかもしれないけど楽しいから良いじゃんな催しものだった筈なのですが・・・私自身も大手メディアがこの手のコンテンツ制作がら手を引いた後、このような現象が2000年代に起きたということに考えさせられました。この映画自体が日本の2000年代のカルチャー現象に関してかなり貴重な証言に今後なっていくと思います。「あの頃」のような映画は日本映画でもっと必要になって製作しなくちゃいけなくなるのは間違いない筈。