何だか不運な女 10 「ドライブ・マイ・カー」の霧島れいか、三浦透子、他

 

近年の日本映画ではぶっちきりの「不運な女」達が観られます。

ナニをもって「不運」というかという議論は多々ございましょうが、数々の世界的な映画祭の実績(カンヌ映画祭脚本賞始め全米の三大批評家賞)から言っても、これほどの不運な人生を送らなければならない女いるかしらってレベルです。しかも日本女性の演技陣も出演しているにもかかわらずおそらく新人の三浦透子さん以外は日本の映画祭で演技賞を取る事が不可能になっている、それが先ずは一点目。で、映画にはアジア系の国際的なキャスト(韓国や台湾出身の女性たち)が出演していますが彼女たちは幼少期から成人男性からの執拗な攻撃を受けており、それが各々のサスペンスドラマとして観る事が出来ます。アジア系の男性は自分と同年代や年長の成人女性たちに幻滅するあまりに利発な幼女や少女を取り込んで教育しようとする輩の犯罪が何故だかすぐに出てくるんですが、それにより男性自らが自滅するパターンが通常です。映画では説明ではなく詳細な描写としてシーンにありますので注意深く観てくださいね、小さい女の子をお子さんやお孫さんに持つ方々。

妻が去って行く前の家福の抱えた危機

舞台演出家であり、また自らも舞台俳優でもある家福(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)とは付き合って合計20年になるカップル。音も女優でしたが演技を止めてTVドラマの脚本家として活躍中という順風満帆な生活でしたが、二人の悩みは子供に恵まれない事。二人で以前に亡くなった娘の3回忌を行ったりするのですが、ぶっちゃけこの仏事自体が異様な演劇に近いんでは・・・と仮定すると妻の音の心理状態は実のところかなり危ういと言えましょう。そしてオープングにある夫婦のピロートークで延々と語る音の構想するストーリーも「異常」。二人とも裸なんで、音の語る物語には性的な隠喩が隠されていると考えるのが常套なんでしょうが、おそらく内容は音の高校時代の実話であり、主人公である女子高校生は恋い慕う同級生男子自身以上に「彼の両親の揃っている平穏で幸せな家庭」に強く憧れていた・・・という告白でもあるのです。ヒトの恋愛感情には二人でするセックスだけではなく個人が家庭を持ちたいという夢を具現化できる相手を求める気持ちが相当なウェイトを占めている、という傾向自体は家庭人にとっては大いなる救いになります。ただし、自分の過去の子供時代の写真を貼って流産もしくは死産した娘の法事を真剣に執り行う妻のいる家福には相当なプレッシャーです。

 

そして家福夫婦の抱える葛藤や妻音のぶっ飛び方、というような危機は一見仲良しな夫婦ほど陥りがちなケースなんでそれをかなり的確かつドラマティックに描いたのが「ドライブ・マイ・カー」の秀逸な部分であります。コレを日本映画の快挙って言うとなんか嫌な気分になる日本人の夫さん方は居るかもしれませんが・・・快挙は快挙だから。

妻が去った後の家福と「映画を鑑賞する観客」に降りかかる様々な危機

妻が突如死去して2年後に家福は四国で行われる国際的な演劇祭に招聘されて、演出家としてチェーホフの「ワーニャ伯父さん」に取り組みます。とりあえず許されるネタバレとして記述しますが「ドライブ・マイ・カー」では映画全体を通してこの戯曲が採り上げられていますが、演劇好きな人々なら本来の「ワーニャ伯父さん」とは似ても似つかない物語になっているって直ぐに判るようになっています。映画当初から家福が自分の車中で聞く妻の音が朗読する「ワーにゃ伯父さん」のテープでも全く異なって居るからさ。そうです、かなり難解な映画なんですよ、おそらく原作の短編小説以上に。そして家福が四国に着くと彼が手がける芝居の演技陣であるコジタカツキ岡田将生)、台湾からの女優ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)、韓国のろうあ者の女優とその夫である演劇際のスタッフ(ヨー・リム・パーク)、家福の送迎を担当する若い女性ドライバーのミサキワタリ(三浦透子)が待ち受けるのでした。

 

演劇とは何か、以上に「何かに遮断され隔絶された芝居稽古の状況の中で何事がおきているのか」の感情に襲われて翻弄される・・・家福と(やっぱり)観客

そうです、ぶっちゃけミステリー映画だと思って観るのをお奨めします。あと映画を観た観客の中で映画物語の需要な登場人物であり韓国からの女優とその夫のプロフィールがネットでも検索できないのを不思議に思うか、私のように戦慄を覚えるかで映画の魅力のキモのとらえ方が違ってくると思われます。しかしながら芝居の主な演技陣がコジを始めとしてストーカー被害に遭って居るっぽい設定がまるで1990年代に日本でブームになった新本格ミステリー小説の世界です・・・当時は非日常的なエピソードが続く論理を積み重ねた上での新本格ミステリーと喧伝されていた記憶があったのですが、活字ではなく映画で表現されると、日常に潜む恐怖を疑似体験させられる気分になるんですが何故なんでしょう。・・・なんだか村上春樹の原作小説の映画化だという事を微妙に忘れてしまいそうになりますが、映画の話に戻りましょう。

ミサキの語る過去は総て嘘がない故に・・

そうです、音にしろミサキにしろ韓国からやってきた女優さんのオーディション時の即興演技にしろこの映画に登場する女性たちの語る自らのエピソードについては殆ど嘘をついていないのが恐ろしいのです。高校卒業後に北海道からやってきたミサキは母と娘のずっと二人暮らしで、死んだ母親に対する愛憎と悔いの感情に囚われてるのが、家福との会話を通して伝わってきます。韓国の夫婦に夕食を招待された時のミサキのキムチの食べっぷりがすさまじく、それだけでも名シーンになりそう。自らも完璧主義だったけど嘘の多い人生だったというミサキの母親の躾の仕方といい、ミサキの母親が急に人格が変容している様を娘のミサキが心底魅入られたように「幼い私にとっては幸せな時間」と呼び、雪の北海道の寒村で再現してみせる・・・でもホラーではありません。ミサキは母親が何処の生まれなのかという事実に成長するにつれて理解していったので、もうちょっと彼女が大人になるまで母親と長く生活していきたかったなあぁ、という事を家福に訴えていくうちに彼女自身の感情を解放されてそれが映画のクライマックスになってます。そんなのがクライマックスで良いのでしょうか?・・・でもその後の急転直下のエピローグがすさまじいのでしょうがないのかも。

映画のラストもやっぱりミサキ

ミサキは映画の最後の最後に家福から貰ったのか、それとも家福の車の憧れて自分で購入したのか、赤いスポーツカータイプのセダン車を運転し、招待を受けた韓国夫婦が飼っていたと似た犬種の大きな犬を乗せて韓国で生活を始めた様子で終わります。これは彼女が家族というものを決して諦めないっていう強い意思表明でもあるのでしょう。