日本映画なんて「つまらない」で当たり前さあぁ・・・♪
だって予算が無いんだもん、脚本がバカなんだもん、スポンサー等が煩いんだもん、何より「お客」がバカばっかりだからさあ・・・理由をつければ際限なく日々つまらないメイドインJAPANが量産されている気がしてきます。その割には未だ数が多いよね(笑)、もうすでに過去の名作だけで皆充分コンテンツでお腹いっぱいになれそうなのにぃ、そうならない。まあ新作作り続けないと過去の映画や名作小説等もそのまま引き継がれないでしょうから量産の結果大半がスカだとしても鑑賞は続けなければならないのよ、とババアになりかけの私なんかは思います。この極地にまでたどり着けば多少は年とっても楽しくヲタクLIFEが満喫できるかしらん、楽しみ。♡
そんでもって今回はミレニアムゴジラシリーズを代表する映画にしたよ。
ゴジラ映画はタイトですっきり、解かりやすく。ゴジラ好きの監督が満を持して登板。
手塚昌明監督は昔から熱烈なゴジラ映画ファンだったそうです。でも助監督としてついたのは西河克己とか市川昆とか本格的派の巨匠な分、ヤングな映画青年には忍耐を強いられそうな環境で修行なさったご様子。ゴジラ映画でも助監督経てゴジラ×メガギラス G消滅作戦 【60周年記念版】 [Blu-ray]で初めて手掛けたのは良いのですが、プロット的には「・・×メカゴジラ」と殆ど一緒、主人公が自衛隊出身の女性で映画冒頭にゴジラの襲撃に遭い仲間の隊員を失い自責の念に駆られて、男たちを後目になんかやたらと頑張るっていう・・・何でも「オンナ主人公」でないとゴジラ映画を監督しないとまで言ったとかって話も。しかも二作品とも映画観る限りは「どうしても主人公が女性である必要もないんじゃあ?」という感じだもんね。そんでヒロインが田中美里より釈由美子のヤツがより有名になっちゃったのもまずは製作サイドが前作の反省を生かしたからなんでしょうけど、それ以上に釈由美子の個性のおかげでしょう。まっ個性っつうか釈由美子自身が持つ危険(ヤバさ)がゴジラ映画にドンぴしゃだったてことかも。今時年頃の若い女性が使命感に駆られてストイックにブレずに物事遂行しつつ子供に優しいって・・・そんなお子様向けの特撮ヒーローが女性にひっくり返ったようなのやり通す度胸は無いんですね普通の女は、でも釈さんならできちゃうのだ。「妖精が見える」というのも彼女の場合ネタというより「こういう現象が起きているのを私の中では妖精が現れると言っているんです・・・」と長々説明する姿が皆怖いから関わりたくない、そんな釈由美子なら館山の海に沈んだ初代ゴジラの骨格から作られた「何だか危なっかしい機龍」を任せても大丈夫・・・とにかく相性は良さそう。(笑)
ゴジラの襲撃は「現場で起きている」のか「会議室で起きているのか」
映画冒頭館山沖に台風と一緒に上陸してきたゴジラ。家城茜(釈由美子)所属する特自のメーサー殺獣光線車隊はゴジラに応戦しようとするも、いきなり光線車体を踏みつぶされるという事態になり、隊長死んじゃって茜だけ助かってしまいます。そん時、日本の内閣首相柘植(水野久美)はゴジラ対策として科学技術庁長官の五十嵐(中尾彬)に機龍の計画を一任。4年後総理大臣になった五十嵐は自ら指揮して秘密裏に(かつてオキシジェンデストロイヤーで倒した)ゴジラの遺体を手に入れ機龍のシステムを完成させようと湯原(宅麻伸)をはじめいろんなとっから学者を集めるのでした。もうこの辺の展開は「昭和のウルトラマンかよ」言いたくなるほどひたすらにベタ。館山沖の時の失敗から左遷されていた茜が機龍のオペレーターへ引っ張られてくるっつうのもそうだし、昔の「小学○年生」とか「TVマガジン」で特集されるようなお子様特撮映画っぽいのであります。ただ湯原の一人娘沙羅(小野寺華那)の存在が重いというか、「ゴジラだって生き物で大切な命」でしょうという主張が映画を一本調子にはさせないかも、でもこれだって昔のウルトラマンをはじめとする円谷怪獣モノのド定番なパターンを彷彿とさせはしますが。柘植首相役の水野久美サマが意外なほど「首相っぽく」、そういや小泉政権が発足したばかりでかの田中真紀子氏全盛の頃だったのを思い出してしまいました。水野サマの芝居で何となく「まあぁぁ・・・いいかぁ」という気になり、いきなり中尾彬なんかに好きにさせていいのかよぉ~と心配にはなったんですが、こうゆうことくらいトップダウンで事を進めても良い案件ではないかと(笑)。相手はゴジラなんで専守防衛にしか法律的にはなりようないし。「そんなことして開発した機龍とやらが暴走したらどうするのですか!」なんつー反対意見が飛び出すようなエピソードなんかもはや退屈だし観たくないしね、だいたい。なんかこう、一種のコミュニケーションの欠落?・・・が映画のテンポを冗漫にしないで効果を上げているような気がしてならないのですがね、気のせいかな。でも同様のことを茜のエピソードを観ていてもかんじるのですよ~。
本気のヒロインはパーフェクトなまでに「中性的な魅力」で通す
茜が特自の機龍チームに引っ張られ配属されると4年前のゴジラ襲撃で亡くなった隊長の弟なんかもいたりして早速いちゃもんつけられるとか、まあて定石通りなのですけど思い出せば、以前に取り上げた世界侵略:ロサンゼルス決戦 [Blu-ray]の主人公二人の設定は「茜さん一人分のプロフィール」だったことに気が付いてしまいます。茜は4年前の出動シーンでは詳細に描かれますが、彼女は元々どんな性格でどんな育ち方をしてきたとかさっぱり掴めないキャラクターでもあるのです。激しい戦闘時はともかく中学の制服を着用しただけで普通の女の子化してしまうような「エヴァ」に登場する綾波嬢やスタンレー嬢みたいな一種のサービス、サービス♡のような雰囲気を醸し出すこともなく、常に訓練を怠らない釈由美子は「孤独な背中で語る」というか迷える青年のようにも、はにかみ屋の少年のようにも見えるしそれでいて沙羅と一緒の時には柔らかな女性らしさも感じさせます。こういう一途なヒロイン像(かつての志緒美悦子サマみたい)はウチラのような昭和の特撮ファンにはおなじみですが、21世紀にもなってこんなのを見せられると陳腐に感じるストーリーの芝居でも人間が演るっていいなあ・・・という感慨になるから不思議です。そんで男の役者がこの主人公の設定だった場合には男社会における「男同士での以心伝心」につい気を取られるのでストイックな言動が観客の興味や共感を得るには至らないのでは? という「性差が与える印象」とでも言うような傾向に思い当ります。実のところ「オンナ主人公でゴジラ映画を撮る」というのは手塚監督のゴジラ映画をモノにする為の重要な戦略の一つであって、センチメンタルな趣味の発露というだけでは決してないのではと思いました。水野久美サマの首相役起用も当初は無かったそうで急きょの配役だったとか。あくまでも効果的に役者の芝居を見せるための「ヒロインが活躍」設定なのでしょうね。
しかし現在九州、特に熊本はぁぁ・・・
エライことになってまして(2016年4月現在)。今度のゴジラ新作の7月には何とか地震災害等がおさまってくれることを望みたいものです。おりしも先週(4月15日)に今度の「シン・ゴジラ」はキャストが総勢328名って発表された日の夜に「前震」が起きちゃうってのもアレなんですが、それ以上に映画のおすすめポイントがゴジラなんだか忠臣蔵なんだか解からないノリになっている・・・ような気がするのが個人的に少ーし引いてしまいましたぁ(-_-;)