BL版 ドキュメント野郎!! ⑥ 「FAKE」

 

FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]

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とにかく2016年度最高に盛り上がったドキュメント映画

 現在振り返ると2016年の日本ではドキュメント映画のブームが一つの頂点を迎えていたような気がしてます。その中でも超ヒットだった映画。公開当時SNS上ではうるさ型の人々がこぞってこの映画を取り上げていて、シン・ゴジラ Blu-ray2枚組この世界の片隅に [Blu-ray]あたりが話題の中心に取って代わるまで、「FAKE」と佐村河内さんの主に「バッシング」で持ちきりでした(笑)。ヒットの一番の理由は結局何だったんだろう?と考えると、それぞれご意見もあるでしょうが私なんかは非常に「TV」に対する強い興味が市井の人々の中にはまだまだ有るからなのではと感じています。確かこの年学生からシニアまでと結構幅広い観客を集めていたのはこの映画だけだったよ。

一体佐村河内氏の一番「何」が凄いのかあっ!!

 私だったらやっぱり佐村河内さんに一言「いやあ貴男のお住まいのマンションの立地が凄いっすよ!音楽家がそんなトコに居を構えるなんて正気の沙汰じゃないわあ!!」て言葉をかけてみたいです(笑)。オープニングも森監督が佐村河内氏のマンションに訪問するところから始まるのですが、マンションはガチ線路沿いにあり、窓を閉め切っているリビングで話を聞いている最中なのに電車音がガンガン聞こえてくる・・・どうしてこの監督「ここのマンション買った理由は?」て聴かないんだろう?まず最初にその点突っ込めよ、て観ていると思うんですけどねぇ。まあ「ドキュメンタリーとしては最後にやらせっぽい仕掛けがあるのかあ」等でも話題だったんですが、今思うとこのマンションのくだりからもうなんだかうさん臭かったでした、面白いってことですけどね。

どうしてこれほどまでに「役者」揃いなんだろう、揃い過ぎだよっ

 佐村河内守自身も面白い人ではあるんですが、なにせ少し前までTVに出ずっぱりで騒動が過熱したこともあったので既知のことが多い。聴覚の障害について執拗なまでに拘るとかね。そりゃ音楽創作の根幹に関わることだから当然だといえるのだけれど、ゴーストライター騒動で釈明会見を開いた時にも自分がしでかした事よりも自分に聴覚の障害があることの医療診断がきちんとされた点についてだけ主張していて、それを報道陣がスルーしたことのみについて怒ってるんだもん、やっぱそれだけ観ていても嫌なヤツだとは皆思うよ(笑)。むしろ未知の面白さとしては夫婦ともにケーキが大好きだとかね♡、佐村河内さん家はお客が来ると奥さんいつもケーキとコーヒーを出すの。近所にお気に入りのケーキ屋さんがあるみたい。森監督もそうだし男の観客は皆佐村河内夫人に凄い興味があるようなんですけど、いそいそとケーキを客に振る舞う奥様の姿には「お気楽」の三文字しか私なんかは浮かばない。年末TVの特番出演の依頼に某TV局の幹部が訪問しに来たときも、アメリカのインタビュアーたちが佐村河内家にやって来た時にも、もちろん森監督にもケーキ・・・・後で絶対食べてるよねケーキ、来客者森監督以外は殆ど手をつけてないもん(笑)豆乳より絶対ケーキの方が好きだと思うよ~佐村河内家ではほぼリビングでの場面ばっかだから、ケーキや料理がいっぱい出てくる懐かしのホームドラマのようなだったよ。佐村河内さんのご両親が正月にやってきてインタビューしてたけれど、お父さん実直そうなんで息子の佐村河内さんも本当は元々かなりナイーブで不器用な人間かと思ったくらい。確かに佐村河内さんの難聴の障害は内容が複雑で思春期にかけて屈折するのも無理なさそうだし、何だかんだ言っても被爆二世であることは確かだよ。そら「障害」て云われたら通常のケースよりかは怖いさ彼らにしてみりゃ、だってば。んで佐村河内さんを取り巻く奥さん、お父さんお母さん、夫婦で会いに行く聴覚障害についての専門家のお医者さんとか・・・正直皆さん「実直そうでしかも個性が濃い」人々、下手な役者よりも存在感があり過ぎる、下手すると佐村河内守自身より「役者」。でもあんまり映画に登場しないけど「FAKE」にはもっとすごい影の主役とでもいうべき人物がいるよね、それはモチロンあの「新垣隆」よ!

BLなのかそれとも「実はかなりマッチョなマウンティング」なのか、でもでもBL?

 この映画って、(結果的にそうなったのかもしれないのですが)佐村河内さんの人となりを知る上で強い興味を引かれる部分が、どうしても新垣さんとのからみにおいてのエピソードに集中しているのですよ。それ以外では佐村河内さんて結構印象が薄い人なの。それだからこそ長年新垣さんと一緒の大作曲家ごっこが可能だったのかもしれないよ。年末の特番を佐村河内さんが断ると某TV局はなんと新垣さんを年末のバラエティー番組に引っ張ってきた。自分が出演する際には硬派な番組にするとTVのプロデューサーは言ってたのに、新垣さんたらひたすらおちゃらけ路線で「壁ドン」まで披露する。そしてその番組にじっと見入る佐村河内氏。観客が驚くのは佐村河内さんがひたすら悔しそうに見えること。むしろ「良かった自分の方が壁ドンやらされてたかも・・・」ぐらいのこと一瞬でも思い浮かばないのか?もしそうならば、彼はTVの中の新垣氏の意思がはっきり正確に汲み取れたんだよ。新垣さんは決して「お人よし過ぎる」性格だから断れなくで壁ドンなんかしたんじゃないよね、自ら「これぐらいのことは俺にもできる」を示したいから喜んでTVに進出したのさ。そもそも新垣さんは「ゴーストライター告白」の時から佐村河内さんとの共犯関係をあえて強調して発言していた。おそらく彼自身は佐村河内あっての自分・・・というものを受け入れたくなかったから長らく報酬をもらって佐村河内さんの依頼を受けてきたんだよね。それをガマンできなくなったのも自分だけの領域(テリトリー)を侵される事態が発生したから激怒しただけだよ。プロの音楽指導者にとって佐村河内氏のヴァイオリン少女との係わり方が許せなかったって最初っから主張してたしね。新垣さんてクラシック音楽の素人にはおよそ理解不能なプロセスを通して強烈なプライドの高さを周囲に見せつける人物だったんだわさ。(笑)

佐村河内守による、これぞ佐村河内守たる真骨頂・・・な佐村河内守

 アメリカの報道メディアの取材を受けた佐村河内さんに森監督がひとつの提案をしてそっからの流れが終盤へと至る「映画観た人は秘密にしてほしいラスト15分」になるようですが、私はどっからどこまでがそれに当たるのかイマイチ解かりませんでした、スイマセン。なのでラスト近くに佐村河内さんと森監督が佐村河内さんのマンションのベランダで煙草休憩をするシーンにのみ言及したいと思います。夕刻のそろそろ帰宅ラッシュの電車がひっきりなしに大音響で通行するなかリラックスして煙草をくゆらす佐村河内守の姿こそ「まさに怪物」、を見出すのは私だけでしょうか?そんでマンションのベランダで一服するシーンは最初と最後に二回でてくるのです。音楽に関してはほぼ素人に毛の生えた、気の利いた中高生レベルのデモテープを持ってくるだけの男が、おそらく絶対音感を持つであろう現代音楽の最前線にいる人間を怯えさせることができるとしたら、それはおそらくはこのような瞬間に遭遇したからではないでしょうか。新垣隆のような男だと一番恐れるだろうなあという佐村河内守の姿がそこにはありました。

 

  

 

BL版 ドキュメント野郎!! ⑤ 「フェイティング・アリ」

 

フェイシング・アリ [DVD]

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 モハメッド・アリの映画、たくさんアリ過ぎぃ・・・

 検索してみたところアマゾンでソフト販売されているタイトルだけでも45本(VHS含めて)ありましたよ、まさに「Mr.Boxing」てやつかい。↑の映画はバンクーバー映画祭で観客賞を取っただけあってあんまりボクシングやモハメド・アリに詳しくなくても解かりやすいし、かつて故梶原一騎先生のお言葉「ボクシングというものは試合前に勝負がほぼ決まっている」の意味が、こうゆうことだったのね・・・と実感できて、尚かつわくわくます。監督のピート・マコーマックはモハメド・アリの大ファンらしく対アントニオ猪木戦についてもリアルタイムでチェックを入れていて、全盛期を過ぎたアリの試合っぷりに心を痛めていたんだとか・・・へぇー私なんかアリについちゃ、「キンシャサ」とか「オリンピックで金メダル取った」とか主に当時のアメリカの公民権運動とかベトナム戦争の兵役拒否の話題にからんだ断片的なことしか知らなかったです。なんでこの映画に登場するアリと対戦したライバルのボクサーの名前でぼんや覚えてるのジョージ・フォアマンジョー・フレージャーだけだったわ。

コンセプトの勝利、そして10人のボクサーたち

 この映画では製作当時、既にパ―キンソン病を患ってはいても存命だったアリ自身のインタビューは無く、話をしているのは10人のボクサーの証言ジョージ・フォアマンジョー・フレージャー、ラリー・ホームズ、レオン・スピングス、ジョージ・シュパロ、ケン・ノートン、ヘンリー・クーパー、ロン・ライル、アーニー・シェーパーズ、アーニー・デレルで構成されています。そしてこの10人、それぞれ個性豊かなのですがやっぱその中でもボクシング強い男ほど賢いんだわ、何故か米国のチャンピオンは賢い人間がより強く、日本のチャンピオンは「無邪気で素直な性格の人間」がより強いのよね・・・一体何故?(笑)。特にキンシャサ以前の初期のアリとタイトル争いしてたジョー・フレジャーにジョージ・シュパロ、ヘンリー・クーパー卿あたりは記憶力も素晴らしいし、解説も的確・・・この頃までののボクサーは主に守備の技術力で勝負してたのかしらん?て思うくらいよ。実際彼らの証言の中には「アリは顎が他の人間よりも強靭で撃たれ強かった」て内容のコメントがあるもんね。もっとも金メダル後にプロデビューした当初はともかく全盛期のタイトル防衛線ではわざと不利な状況を演出して相手を油断させたり疲れさせたりしてたみたい。10人の証言者の中には「アリと試合できただけで感謝している」という人間もいていろいろです。生涯かけてずーっとアリをライバル視し続けているのはなんたってあのジョージ・フォアマンくらいしかいない。クーパー卿なんかキンシャサ戦の時のフォアマンについて辛辣にコメントしてたもん。きっと相当フォアマン悔しかったんだ、て知りました。二十世紀のボクシング&格闘技ファンにはおなじみのエピソードなのかもしれませんが。

アリと戦ったボクサーにも「歴史と人生」あり過ぎぃ

 捕まってムショ暮らしから筋トレ後、ボクシングに目覚めて30代ごろから頭角を現し始めたとか、離婚して息子と二人暮らしになってからアリの対戦相手に選ばれて助かったとか、アリに勝った新進チャンピオンがタイトル獲得後に、コカイン所持で捕まるとか・・・まあ彼らにもいろいろあります。ジョージ・フォアマンキンシャサ戦後に宣教師になったのは世間では本当に有名な話のようで、当然のごとくさらっと語られるのが実にけったいな印象をうけました。(笑)最初は夫と観ていたのでいろいろそばで教えてもらってたのですが、彼はアリの公民権運動や徴兵拒否の話題後は興味を徐々に失ったようで途中から一人で観ることになったのさ。まさか夫も私もアリがここまで余裕しゃくしゃくで王座に長年君臨してきた人だとは想ってなかったからかも。最近のアスリートだとボルトのような男もいるけど、この手の人間は日本人にはほぼ存在しないので想像がつかない処もあるんだよね。それでも映画のラスト近く80年前後のアリの姿はボクサーたちの証言からも「ボロボロ」のカンジがうかがえて哀しくはなってきますね。満身創痍なのにお金に引かれてリングに無様な姿を晒しているのが写真の再現でもはっきり判る。常にぎりぎりの日本人アスリートにはあんまり無いかも、そこだけはボクシングでモハメド・アリみたいにならなくてもイイやって皆思うかもね。

 しかしそれでもアリと戦った男たちの証言として猪木のも聴きたいと考える日本の格闘技ファンは多いんでせうね。【Amazon.co.jp限定】モハメド・アリ/Muhammad Ali Life of a Legend & 四角いジャングル 格闘技世界一(2枚組仕様) [DVD]を始めいろいろ揃ってますのでそっちでご確認を。「フェイティング・アリ」の監督は猪木戦をまったく認めていないんだそうですが、あれはあれで究極の闘いだったというお方もおられるようなのでいっそのこと試合の解説にチャレンジされてはいかがっ。

 

 

BL版 ドキュメント野郎!! ④ 「ボウリング・フォー・コロンバイン」

 

ボウリング・フォー・コロンバイン [Blu-ray]

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 今更この映画

 すいませーん。やっぱりそんなにドキュメンタリー観ていないもんでぇ。(-_-;)とにかくここ2、3年のドキュメンタリー映画人気の高まりは強烈で公開本数は増えるばかりつい先月もエイミー・ワインハウスパキスタンの伝統音楽団がNYジャズ公演を果たすやつとか後もちろんあの現代のベートーベン様のその後を追った大ヒット映画など観てきたんですけど、追いつかない・・・という感じ。作家性が強いあまりもはやドキュメントの対象となるキャラクターも凄いけど、スコセッシ監督がローリングストーンズを追っかけるとかビートルズのドキュメンタリーをロン・ハワードが監督するとかニュースになってもはや訳が分かんなくなってきました。まあその最初のきっかけが↑の映画とマイケル・ムーア監督サマってことですかね。一時期はマイケル・ムーア=近藤春奈=角野卓造・・・など日本のTV界では果てしなくお笑いネタにされてしまった事もありましたが。

今となっては懐かしいばかり

 タイトルも「コロンバイン事件の理由となったボウリング」てことで、1999年アメリコロラド州にある公立のコロンバイン高校で起きた「コロンバイン高校の虐殺」事件にインスパイアされて製作されたことが解かります。犯人の二人は自分たちの高校で銃をぶっ放す前にボウリングを楽しんでいたんだとかのエピソードが有名だったからですね。9・11のちょっと前の現在よりもまだ何となく中産階級的で平穏そうに見えたアメリカで起きた凶悪な少年事件だったので、当時の若者カルチャー(レオ様の映画やらマリリン・マンソンのメタル音楽まで)の影響が取りざたされたもんです。それを茶化して「ボウリングの影響で高校性が虐殺事件を起こしたってなんで云わないんだい?」となったわけ。で、映画も最初はマリリン・マンソンのインタビューやらアメリカの目に見えるヤングなカルチャー談義から始まり徐々に目に見えないアメリカ開拓時期からの歴史、特に銃との関わりについての歴史について話が及んでいくのです。中々に面白かったはずなのですが、かなり昔に観たもんですから強く印象に残っているのが隣国カナダとの比較。映画でも中盤部の主要を占め、カナダの市民や若者たちにインタビューして彼らの率直な意見を引き出していたのを覚えています。映画に登場するカナダの人びとは観ていてもアメリカ人と比べてすべてにリラックスしているカンジ。若者なんか特にそう・・・でカナダの若者はアメリカの若者に比べてルックスも言動も大人びているんですが、大人びているからといっても顔つきからして知性の輝きが無さそう・・・という姿に何故かものすごい衝撃を受けました。(笑)子供っぽいけどやたら強い知性の萌芽を強く感じさせるアメリカのヤングと人生達観してるけど頭はあんまり良く無さそうなカナダの若者・・・こ、これも「銃の問題」とは少し外れるんだろうけど、根の深い問題なのかも・・・てつい思っちゃった、御免よぉ。

今思うと、いろいろ考えてしまう「チャールトン・ヘストン」について

 今見ると映画後半でムーア達が訴えたおかげで銃の販売をお止めたKマートが映画公開後に経営破たんしてライバル会社に吸収されたのも感慨深いんですが、やはり終盤ムーアが全米ライフル協会の会長であるチャールトン・ヘストンと直接対決するのは皆びっくりしましたね。日本でもおなじみかつての名俳優ですから。マイケル・ムーアが自宅に直撃して、ヘストンがなんかおずおず登場するシーンからして「なんか変だぞ」って不安になったし。後に彼がアルツハイマーを発症しているのを公表し翌年亡くなったという事実からしても映画でピックアップされていたヘストン会長の強気な姿は「ライフル協会のほぼ言いなりだったのね」って判断したくなってしまいます。チャールトン・ヘストンは保守派の政治思想の持ち主でしたが公民権運動もやってたし、70年代は俳優組合長もやっていた。ドナルド・レーガンチャールトン・ヘストンクリント・イーストウッドと政治的に保守派のハリウッドスターの流れってあるんですね。ハリウッドって共和党支持の人は少数派なんだけど、その代わり義理堅くて責任感が強いカンジ。ヘストンについては「自分の生まれ育った故郷の価値観がアイデンティティ」だから公民権運動で人種差別に反対するのも全米ライフル協会の会長になるのも米国建国の理念に忠実たれ、の精神で彼自身には矛盾はなかったはずだったんですが時代の変化はそうゆうの許さなくってきてヘストンも辛かったのでは?と思いました。マイケル・ムーアに追い詰められてインタビュー中に部屋から出て行ってしまうヘストンに哀しくなってしまうファンも多かったでしょうが、でもその一方でヘストンって【映画パンフ】猿の惑星 フランクリン・J・シャフナー チャールトン・ヘストンのみならず大いなる西部 [Blu-ray]でもヒロインの一人に軽蔑されていじけながら耐えていたり、ソイレント・グリーン 特別版 [DVD]でも皆にひたすらなじられていたり、なんたって全篇にわたっていじめられてもじっと我慢の子だったベン・ハー 製作50周年記念リマスター版(2枚組) [Blu-ray]が当たり役だった頃を彷彿とさせなくもないような・・・(おいおい)。マイケル・ムーアにしろヘストンと同様アメリカ中西部出身の「真面目タイプなアメリカ男子」ですしね、分かり合える接点が殆ど無くともせめてもう少し穏やかに対話できなかったのかと今になってちょっと思ってしまいます。

BL版 ドキュメント野郎!! ③ 「シュガーマン」

 

 地味に「凄いお話」、渋く「危険(ヤバい)な男」

 よくよく考えたら成し遂げたことは凄いかもしれないのに、地味・・・。という英雄(ヒーロー)の映画と言えばいいのでしょうか。ドキュメンタリー映画として2012年のオスカーはぶっちぎりで作品賞は取ったものの、観に行った先の劇場では途中から居眠りしていたサブカル好きそうな兄ちゃんがいたし。ドキュメンタリー好きの野郎どもにはあまり語り継がれていない映画。なんつうか、主役たるこのロドリゲスというお方、どっか女性的な部分があるんじゃないかな。もしも明石屋さんまのようなヒトがいて「SUGAR MOM♡」とかあだ名つけたら人気が出るとか・・・そんなオギママみたいなブレイクの仕方があるわけがないですからね、USって。だから突っ込みどころがないの。決して我が強くない人間ではないし、むしろ強烈頑固な一面が音楽にも日常スタイルにも存在するのに皆それを忘れてしまうというのか、彼の音楽に合わせて起こった現象が一見唐突で繋がりがないので、「そりゃあ大変でしたね、やりましたね長年の苦労が少しは報われましたね」としか言いようがない。しかもシュガーマンという男はそんな賛辞にも「まあね」ぐらいで淡々と受け止める・・・その姿がどっか中性的に映るんですよ。ちなみ私は映画の途中でようやく登場した彼を観て何故か「コイサンマン」の二カウさんを思い出してしまった。(笑)・・・あと言いにくいんですが「アクト・オブ・キリング」のアンワル爺さんにも共通するものを感じる。そりゃ、野心だの何だの脂っ毛が抜けてジジイになった処で初めてドキュメントのネタになるからだろうがっ、と突っ込まれればそれまでの話なんですが。ちなみドキュメント野郎たるに謎のシュガーマン=ロドリゲスを追いかけて映画にしたのはスウェーデンの新進監督だそうですが彼の方はどうしたわけだか三十代の若さで自死されたそうです。

当時の若者は皆、自分の過去の「青春」を静かに熱く語るけどぉ

 へっ、へぇぇぇ・・・そうなんだ、で感想が終わっちまうという、ごめんよ、アパルトヘイトのこと知らないからさあ私ら。1970年代の南アフリカアパルトヘイトでは黒人だけでなく白人の若者たちもまた人知れず閉塞感で暗かったんだそうだ。どうも他の先進国の最新文化が入ってくるのを忌避したり、思想の統制が厳しかったみたいだね。だから当時の若者(でもインタビューに答える当事者たちは皆かなり成功した風の50代以降のおっさん達なもんで)は熱をこめてロドリゲスの音楽、それもシュガーマン」のアルバムの一、二枚っきりについて語る。情報が遠い・・・というのは日本の洋楽でも同様じゃないかと思ったりもしたけど、70年代の日本の洋楽ロックの全盛期、あっちじゃ一発屋でも何でも日本じゃ大盛り上がりでフレンドリーに接してたのと比べりゃ確かにひそやかで地味なのかなあ。70年代半ばから80年代にかけてっつうと日本だとクイーンやらキッスやらディスコで一番華やかだったもんね。で、南アフリカで流行ってた「シュガーマン」は麻薬の売人を指す言葉、それを皆理解してたかどうかも不明だったけど、南アフリカの中間層の若者には熱狂的に受け入れられた。もっともすべて海賊版で紹介されてたのでロドリゲス本人には著作権料など一切入らなかったけど。監督の方はそれに強く憤りを感じていたみたいで、当時のロドリゲスのプロデューサーにも随分詰め寄っていたのが印象的だったんですけど、私自身の印象では当時の音楽著作権等の事情を考えるとなあぁ・・・インタビューに答えていたプロデューサーはそれこそ「こっちは別にロドリゲスで一人だけボロ儲けたという意識は無い」って顔にはっきり書いてあったような気がしましたしね。(当時の海賊版の利益が海を越えてUSまで入ってきたようにもあんまり思えないし)

そしてついに「ロドリゲス降臨」

 南アフリカではロドリゲスは既に死去といった噂が広がっており、当時一緒にアルバムを製作したスタッフさえも彼の消息を知らなかったのですが、後半に至ってあっさり判明します。ロドリゲスはいったん音楽を止め結婚して三人の娘を得たものの結局離婚し、土木作業員として働きながら娘たちを育て上げておりました。土木作業員時代のエピソードとして最も凄いのは「どんな現場でも出勤はスーツ姿で決めていた」というやつで、しかも写真照明付き、ほぼ「ステージ衣装のごときスーツ姿」が工事現場の背景とともに映し出されている写真には皆さんノックアウトされること間違いなしです(笑)でもロドリゲス氏という人物はどこまでも控えめな堅気の爺さんでしかないのですよインタビューで語っても語っても出てくる素顔はそればかり。南アフリカでの大ブレイクの話を聞いても「知らんかった」だし、南アフリカのロドリゲスファンが彼の消息を知って熱狂するや、いそいそと南アフリカでライブを行い、フレンドリーな熟練ミュージシャンとして楽しそうにパフォーマンスしちゃう。・・・で現在(映画公開後)ごく自然にUSでも表舞台に立ち、淡々とライブ活動に励んでいるそうです。娘たちも独立し、彼女達の援助ができればそれで良いらしいので(しかし娘たちは土木作業員時代の給料で大学まで行かせたっぽいぞ)ゆうゆう自適で音楽人生を生きているようです。


Oscar Winner Sugar Man - Rodriguez - LIVE

 

つうことで実際のプレイをご覧ください、でおしまい。

 

 

 

 

 

たられば(IF)の女 ⑧ 「稲妻」の高峰秀子他

 

稲妻

稲妻

 

 成瀬巳喜男と女流の脚本家

 松竹のシナリオ研究所に通っていた頃に講師で井出俊郎先生という大御所が居てとても為になる映画産業黄金期の話をいっぱいしてくれたのですが、当時の私らはその手の話に一切興味がなく(-_-;)・・・殆ど皆井出大先生の話をボサーっと聞いているだけでした。その話の中で「ある有名監督が言うには女流の脚本家というのは構成については全くできないので構成については自分がやった」と発言していたとおっしゃっていたもんです。有名監督というのは成瀬巳喜男のことで女流脚本家というのは水上洋子とこの映画や流れる [DVD]でも井出さんとともに脚本を担当した田中澄江のことだと思います。ただその割に映画の展開について等、内実では完全に成瀬主導でいったわけでもないらしいという噺も最近は伝わっていて浮雲 [DVD]でもラストは水上洋子がほぼ決めてしまって成瀬としては凄い不満だったのにも係わらず代表作とされちゃったとかなかなかに複雑です。あとやはり水上洋子にしろ田中澄江にしろかなり作風に個性の違いがあって見比べてみるとどちらがより〇〇だろうか・・・と議論してみるのも面白かろうと思います。ちなみに高峰秀子は「流れる」やこの「稲妻」の出演時の記憶がどちらも殆ど無いというコメントを後に残しておりますが、この辺が田中澄江という作家の個性を見極めるポイントかもね。私たまたま田中澄江の一番最後のエッセイ集を立ち読みしたコトもありますがかなり毒舌な人でした、しかもなんか冷たいリアリスト。

父親が一人一人すべてが違うというきょうだい

 ザビ家の兄弟の先駆けと言えましょう(笑)。ヒロイン清子(高峰秀子)の母おせい(浦辺粂子)はいろいろあって生んだ4人子供の父親が凡て違うということになってしまった女。この時代死別も多いし、失敗して女房子供おいて出て行ってしまう男も多いからこの母親が特に男好きというわけではないのですよ。あくまでも残された子供と生きのびるために再婚を繰り返した生き方をしたむしろ控えめで優しいお母さんなんですね。清子は4人兄弟の末娘ではとバスのガイドをして経済的に自立している。上には兵隊帰りで未だ就職できずニートな兄嘉助(丸山修)と結婚した姉光子(三浦充子)と縫子(村田千枝子)がいる。ザビ家でいえば清子は「ぼうやだからさガルマ」のポジションにあたり嘉助はキシリア+ドズルってカンジ、そして長女の縫子と次女光子・・・この二人の女がとにかく悪い、悪い。光子の方はむしろ可哀想じゃないの?とお感じになるやもしれませんが不幸になった恨みもまたさらに己に向けるという・・・男性をとことん幻滅させるという意味では悪い女だといえますね。成瀬巳喜男映画をガンダムネタで説明してどうするつもりかいっ?・・・というのはさておき、物語は清子に縫子がやり手のパン屋綱吉(小沢栄太郎)との縁談を持ち込んでくるところから始まります。

食卓のない家

 縫子は綱吉と一緒に旅館(まあ要するにラブホ)を経営して自分の旦那はほったらかし、早い話がすでに綱吉とデキている。その上で綱吉と清子を結婚させようとしています。この時代結婚適齢期の女性13人に対して男性1人というほど男性にとって売り手市場の婚活状況だというセリフもあるくらいなので、この綱吉って男はかなり調子こいている。根が賢明だし商売上手なので一見腰低いからつい騙されそうになるけどね。ただ幸か不幸か清子の家の人達って皆それぞれバラバラで優柔不断なんだよ(笑)、兄の嘉助の就職の世話まで綱吉がするって外堀埋めようとすると、縫子の夫(植村謙二郎)が不倫に怒って夫婦喧嘩したあげく、行く処がないので清子の家に居候しだしてそれをおせいが面倒みてあげるとかもうぐっちゃぐちゃ。住宅不足で下宿人も置いてたり、次姉光子の夫が急死して実家に戻ってくるとか忙しないしね。清子は実家のどたばたに疲れ切ったのと何より綱吉、縫子そして光子の間のいざこざに嫌悪感を覚えて実家を飛び出すようになる。

 清子の家で特徴的なのはとにかく食卓が映らないこと。家族団らんのシーンもそれなりにあって、家族で蕎麦食べたりしているのだけど光子の引っ越しに集まって蕎麦を食べる・・・という具合に通常なら当然あるはずのちゃぶ台や箱前の類を意図的に失くしているのさ。食卓が無いという家には家長という存在や「父性」というものが欠如しているという表現なんでしょうね。母親のおせいは子煩悩で世話は一生懸命に焼くのだけど子供の教育には無頓着。そもそも女親が子供を教育しようだなんてのはダメだとされた時代だからしょうがないんだけど。ただそのおかげで成人した子供たちは一体何を規範として世の中渡っていいのか判断でいないし考えたことすらないからひたすら欲望と私怨だけで突っ走るしかないの。で、そういう状態だと結局弱肉強食の理屈だけが説得力を持つようになりますね。

家の中に「父性」はない、家の外に「父権」があるだけ

 おせいは子供たちそれぞれに「お前の父親はこうだった」と語って聞かせるのが精いっぱいだった。清子の父親は正直で誠実だったと清子に必死に説く。清子が仕事によって自立しようするだけなのを見て「お前の父親のようにイイ人も世の中には居るんだ」って。せっかく縁談が来たと思いきやその男が長女の愛人でおまけに未亡人になった次女にまで手を出している状況を目にしても何もできない無力な母親だから、そんな説得されても清子は困るわな。「父性」でも「母性」でもいいんだけど片親だけの家族だと子供に規範を教えるのは中々上手くいかないのかもしれない。「民主主義などという下等なシステム」みたいに発言するギレンにもザビ家のおとっつぁんは「お前はヒトラーのしっぽだな」と嫌味を言うぐらいしかなかったみたいに、おせいは縫子や光子の振る舞いを「父親のDNAのなせるわざ」のコメントだけで娘二人が暴走していくのを止められないのよ。光子は急死した夫に愛人と子供まで居たのを知らされて夫の保険金の一部を請求されたりしたもんだからすっかり心根がグレたのか綱吉の誘惑に乗りお店を出す。再婚なんかよりも金回りの良いパトロンを得てお店を出すような生活の方が楽ちんだからって。縫子に至っちゃもとより甲斐性のない夫よりも金と力が欲しいという欲望むき出しの女だから、美人だけど人畜無害だとタカをくくってた妹の光子に出し抜かれてオトコ取られたと知ってぶちきれる。姉二人の行動の規範は「結局カネ」だけだからさ。ただでさえ父性が欠如した家庭で育ってるから「家というのはキャッシュフローを生む箱」みたいにしか考えられない。女性がその意識で徹底すればより近代的な一夫一婦制の結婚に魅力は感じないようにもなるわさ。明治から戦前までの大都市圏だと中の上の懐具合の男性だったら妾囲っているの当たり前で妾には寡婦も多かったし。縫子に綱吉の仲を問い詰められて思わず「にやっ」と勝ち誇る光子の表情が怖いの・・・だって映画前半では尽くしていた夫に死後裏切られたのが発覚して清子だけじゃなく観客もすっかり光子に同情してたからさあ、その豹変ぶりはなんなのよ・・・もう清子でなくともがっくりくるよ。

「世間知らず」の清子、ある兄妹に出会う。

 実家を飛び出した清子は品の良い未亡人の家に下宿を見つけてホッとする。清子の家にいた下宿人の独身女性は教養がある女で食費を削っても蓄音機で音楽を聴く、なんてことにお金を使う。清子の家族はそんな生活スタイルのどこが楽しいんだってせせら笑うけど清子にしてみると「食費を削っても夢中になれるものがある」人間の方が豊かで文化的な生活を謳歌している気がして思いきって自分も挑戦したのさ。綱吉はそんな清子にがっかりして「縫子さんなんかこっちが頼まなくでも(自分に)きたのに」って愚痴る・・・聞いて呆れるトコだけどね。ただ「昭和の歩くATM」としてしか女たちにちやほやされない綱吉も相当に不幸なオトコかもよ。で、この映画オトコを悪者にしない分、女の冷酷さと非道が目立つんだけどぉ・・女流作家に好き放題書かせるからだよぉ~。(苦笑)田中澄江はこの映画で東京生まれの若者が地方から出てきた中産階級で育った同世代に「驚いて憧れを抱く」様子を巧みに描いている、これだけでも日本の戦前から戦後の風俗の実態がうかがえるね。あと終戦直後の日本って結婚適齢期の女性たちの多くが独身を貫いたという「かつてない異常なディストピア事態」が発生したんだけど、どんな動機で彼女らが結婚から遠ざかっていったのかが「流れる」と合わせて観るとよく解かります。高峰秀子自身が当事者世代の代表として役を演じていたからぶっちゃけ怖くて記憶が消失したのかもしれないよ。

 でも最後の最後、下宿の隣に住むさわやか兄妹(根上淳香川京子)の登場によって清子の周囲がガラッと変わってしまう。兄の周三は妹のつぼみをプロのピアニストに育てる為に働いている男性。清子は兄の庇護のもとつぼみが奏でる可憐なピアノの音に惹かれて二人に出会うって・・・突然乙女チックに話が反転する。まあこの部分が映画の唯一明るい部分といやあ言えますが。そんで実家の母から「縫子と喧嘩した光子が家出してどうしよう」と助けを求めてきて母親を安心させて送っていくという場面になる。「稲妻が鳴れば光子姉さんは帰ってくる、姉さん昔から稲妻を怖がってたから」って。平穏に終息するか波乱になるのかぁ・・・の余韻を持たせて87分と短め。なんか「キミは生き延びることができるか?・・しゅうぅぅ」ってカンジで終わります。しかし光子はどうなったのかな、ザビ家の二番目のきょうだいは一年戦争前に死去してしまったが。

 

 

 

 

BL版 ドキュメント野郎!! ② 「最後の一本」

 

最後の1本 ~ペニス博物館の珍コレクション~ [DVD]

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 三人の「漢(おとこ)」、一本の「〇〇〇」・・・

 まさに「野郎の、野郎による、野郎のための」ドキュメント。とはいえ一発目に出すのは気が引けて二番手に登場させることにしました。

 なにせDVDのパッケージにもあったみうらじゅん大先生の「コメディ映画であることには間違いない」というコメントと日本版と英語版の予告編のカンジが映像のチョイス以外はほぼ一緒だというのがまたあまりにもこのドキュメンタリー映画を正確に伝えているので泣かせます(笑)、まさに三人のオトコの生き様が激突、なぜにそこまでこだわらなきゃいけないんだろうっ、ていう。

三人の「ココロ熱き男たち」を紹介するぜ!!

 まずアイスランドのフーザ・ヴィ―クという港街に「ペニス博物館」というのを建てた館主のシッギ(シグルズル・ヒャールタルソン)氏ね。このお方中学の校長先生までになられた実直な教師で学究肌の爺さんなのですがある日牛のペニスを観て心惹かれ死んだ哺乳類の男性器をホルマリンで保存した標本を作ることを決意、以来死んだ哺乳類の死体から男性器の標本を作ってコレクションするようになったとさ。博物館はもともとシッギ自身が作ろうとしたわけではなくて、家の中にコレクションが溢れ返っているのに困った奥さんの助言によるものだそうです。シッギの奥さんも夫を怒らせることなく標本を博物館に凡て持っててもらいホットしたそう・・・っていうのがなかなかアイスランド人の優しさっていうかヘンテコリンさなのかもしれません。で、映画の発端はシッギさんの男性器のコレクションは完璧に近いんだけどただひとつ足りない動物がある・・・それは「人間の男性器」だということでペニス寄付の候補者を大募集!・・というところから始まるのでした。

 んで世界に向けて「ペニス募集」を発信したところ地元アイスランドから90歳の元探検家で有名なパゥットル・アラソン氏が名乗りをあげ、そりゃあ良かった博物館としても皆が知っている名士の一物というのは誇りだよ一件落着、となったのですが一人アメリカのカルフォルニアからトム・ミッチェル氏というまたお金持ちビジネスマンも同時に応募してきました。彼はまだ60歳手前というお年頃。ペニス募集に興味を持った御二方はどっちも若いころは絶倫でぶいぶい言わせてたぜっ!という過去の栄光を大事にしたいという(笑)強い願望があるらしくその証として「俺のやつ是非ホルマリンに漬けてよ」ということみたいなの。♡その点アラソン氏は年齢的に圧倒的優位で第一候補、早速ペニスの標本を作る準備だけしましょうかとサイズを図るために「片どり」を開始、確認したところ問題が発覚!・・・成人男子のナニしちゃ短くないか?って(おいおい、でもアラソン爺さん14センチはあるっていってんじゃんか)実はアイスランドは中世の時代から男性器の長さが短いと妻が夫に対して離婚を申し立てをしたぐらい男性のサイズにはこだわるお国柄だったのさっ。(日本サイズよりは大型が基本なの。だからじゃぱんめんずはアイスランドだと時に肩身が狭いこともあるかもねっ)だからシッギだけではなくアラソン氏の身内も含めて「アラソンおじさんの誇りを尊重するために」どうしたらいいのか皆で悩んじゃう、大ピンチ! 俄然巨〇を誇るミッチェル氏に候補の目が出てきたのだった。

三人のうち真っ当なる人物、そうでない人物・・・

 この映画の感想を男性がやるとなぜだか↑のような議論を始めてレビューを進めるのですがアンタも何故そんなことばっかり気になるわけ?と女の私は突っ込み入れたくなります。三人とも真っ当とかそうでないとか超越してるじゃんか。(笑)それより男の誇りにもお国柄がでちゃうもんなのね~というところが味わい深いと思いますけど。シッギは「お葬式にペニスが無いご遺体だと家族が可哀想、提供して欠損した臓器とかだったらまだ良いけど」って悩むのですが、正直「?」な反応になります。(アイスランドは土葬だからかなあ?と超批評で推察してましたけど、すっぽんぽん姿で家族も埋葬したくないだろっ)どう考えても理解できないお悩みとしか。アイスランドの人びとは優しいっていうかどんな偉大な実績を残した人物でも「加齢ともに縮む」現実を皆で哀しみともに受け止めるとか・・・共感力高いのもいいけど限度があるってば、なのね。これを「イイ人達」というのはともかく真っ当とまで言うのは同じ島国マインドの人間の発想だからこそと思うわ。またアラソン氏は老いてますます意気軒昂というか生涯関係した女性に関しての昔話が止まらないというか、普通の女性としたのは3百人程度でセックスワーカー系の女性とは別カウントだよっ、とかやたら自慢デカくなるばかり(笑)おまけに自分のモノを標本にしようとミッチェル氏の野心が暴走し始めてきたのもシッギの悩みの種になります。もうミッチェルさん自分のペニスは要らないからあえて「エルモ」と命名我が息子として社会へと送り出したーいとまで言い出す。つまりね生きているうちにちょん切った自分のペニスの標本を博物館に置いてもらって自分で観に行きたいんだってさっ。そう肥大した自我を持て余しているのが超大国のリッチにとっては(サイズではアラソン氏に4センチ以上差をつけているものの)それは同時に苦しみかもしれないのよぉ、本人はツライかもね、観てる分には爆笑だけど。

ペニスの発音って・・・

 辞書で確認してみたんだけどpe-nis(pi:nis)って発音するって書いてあるんだ。でシッギさんたちもだいたアクセントは最初のpeの方において発音しているみたいなんだけどこれが米国のミッチェル氏の場合なぜだか(pi:nas)って言ってさらに(na)の方に強いアクセントつけているように聞こえるんだよね。ミッチェル氏の生涯の野望は一度でいいから「誰よりも一番早くそれをやり遂げた男」になることだそうでシッギのペニス標本一番手になることに賭けている。シッギは生きているうちに切断した標本は博物館にとってはルール違反になるから要りませんて拒否したもんだからミッチェル激怒するし話がどんどん拗れていくの。焦ったミッチェルは自分のエルモにコスプレした写真を撮ってシッギにアピールしだすし、シッギはアラソンがダメでミッチェルも厭だとすると自分のでやるしかないのか?とかまた悩みだす。ミッチェルの夢はどこまでも膨らんで「エルモ」がまんまコミックのキャラクターになって人類の危機を救ったりするヒーローになるというプランを計画しているんだ。一方シッギはペニスのコレクションは「皆に嫌われているものを救いたいという自分の願いからきているんだ、エコロジストとしての精神からさ」という自説を説きアイスランド原産で今や絶滅の危機に瀕している北極キツネの保護に取り組んでいることも強調するんだよ。そんなこと映画は交互に描くもんだから観ているうちに笑うの通りこして呆れるもんね。

 体調を崩し己が標本になるしかないのかと悩むシッギさんが保護している北極キツネをセンチメンタルなまなざしで見つめるのと、エルモのことを「ぴぃなあぁす」と発音しているミッチェルさんの姿は対照的。シッギさんに至っては「もうこのヒトの頭の中には死後自分自身の標本と北極キツネのとが並べて置いている図がばっちり入っているんだろうな」なんだよね。対してミッチェル氏はもともと自分の一物をエルモって名前にしたのもセサミストリートより早かったし、今度こそエルモのアメコミキャラ化で歴史に名を残す一番になりたいって力説する。話聞いているうちに「いやあ、それだったらチャールズ・シュルツチャーリー・ブラウンで真っ先に実践したアイデアではないのかしらん」と思ってしまった。私昔っから何故SNOOPYの漫画が「PEANUTS」というタイトルなのか長年疑問だったのですがやっといろんなコトが腑に落ちるようになりました、そういう意味じゃいろいろ勉強になった映画だったよ。

標本の行方は・・・

 それは鑑賞して確認してね。ラストに博物館にあるモニュメントも紹介されるのですが日本の神社などに祭られている「ご神体」と比較していても楽しいよ。♡

 

BL版 ドキュメント野郎!! ① 「アクト・オブ・キリング」

 

 今やドキュメントは娯楽映画ジャンルとしてもメジャー

 ・・・ですよね。世界的な傾向だけど特に日本の映画市場でみた場合ミニシアター復活の起爆剤になっているカンジ。そんで今時の映画ファンがどうやらドキュメント映画に求めているのは、「漢、男、お・と・こ」の生き様見届けたい!!という衝動のようです。「オンナの現実(リアル)」を見届けたい需要も多少細々はあるようですがそっちの方面は低調。日本のドキュメント映画は1960~70年代にかけてはむしろ圧倒的に女性の役割が大きかったのですが随分と様変わりしました。それはそれで日本社会の構造変化ということで、なんか凄いデカいことのような気もしますが具体的にはよく解かりません。なにせ私自身そんなにドキュメントもの詳しくない(-_-;)・・・なんで地道に「野郎の背中」を追い続けたいと思います。

 

 

これ観に行った時「混んでたのぉ」通路に座布団しいていた観客も

 イメージフォーラムの興行はゴールデンウィークが最後、だったと思います。3日にちょうど時間ができたので一人で観に行ったのですが整理券渡された。最初観ようとした一回目には人数一杯で入れなかったもん。どうしてここまで盛り上がったのかイマイチ不思議でした。お前も観に行ったじゃん、と言われましょうが受けるドキュメントの「ツボ」があんまりピンとこないものですから。口コミで・・・というなら確かに映画の内容的にいっても納得はできるのですが、そうするとここまでの「伝播力」は一体どこから来るのかということですね。衝撃的だったり扇情的な題材や「仕掛け方」のドキュメントならそれ以前にもあったし、この「アクト・オブ・キリング」のヒット以降さらに増えたんですが、じわじわ・・じゃなくて電光石火のように観に行くヒトが増えたという印象でしたわ。

 

ACT(虐殺行為をしたご当人)による再現ACT(演技)、その暴走っぷり

 最初にジャカルタに住む「若い頃悪してた」という割には実直そうな爺さん(アンワル・シンク)とやたら明るいけど胡散臭い中年のおっさん(ヘルマン・コト)が登場し、アンワル爺さんが1965年から行った「9月30日の大量虐殺」について屈託なく語るところから始まります。アンワル爺さんのやったことは地元では一種の英雄行為とされていて住民を片っ端から捕まえ、「共産党員」にされた人々を次々処刑していったのにも罪の意識は全くない様子。どんな風にやったんですか?と聞かれ当時殺害現場だったある建物の屋上で「こんなカンジでクビを切ったかなあ・・」とやって見せようとするのですがなんか要領を得ない。どうだったけなあ・・・とアンワル爺さん遠い目をし始めるんで、住民の尋問とか何から始めから再現しませんかお芝居でってハナシになってしまうのですね。確かに監督自身の提案だったとは思いますが、アンワルの傍にくっついているヘルマンはアマチュア劇団もやってたギャング(笑)なので、張り切っちゃっていろいろ用意してどんどん大がかりになっていくのでした。監督が取材当事者にやらせてみる、ドキュメンタリーなのに「やらせ」だということでGOOGLE検索でそれが特別にピックアップされているという(笑)私なんか「え、あのドキュメンタリーにまだ知らないことあったっけ?」と一瞬不安になり、検索に乗ってみたら通常の紹介でそれに驚きました。確かにやらせドキュメンタリーって聞くだけでインドネシア現代史に対する興味なんか吹っ飛んでしまった上で、喰いついちゃうよね。

キャラ「立って」ます皆さん・・・笑っちゃうし、「茫然」

 ヘルマンのおっさんが仕切るもんだから住民まで巻き込んで60年代当時の共産党員が自分の家から連れ出される件を近所の人達が協力してお芝居始めちゃうとか、自分の継父を殺された遺族のおっさんまで出演、そして尋問されるシーンに出演って・・・一体何考えてんのさってカンジです。いやああの頃は物騒だからいろいろあっても仕方ないよね~みたいな雰囲気です。パチチェラというインドネシアのギャング団が地域に根を張って仕切っているので、あんまり皆怒らない。ついでに言うと1965年にスハルト体制が崩壊したのはスハルト社会主義寄りの政治に走って経済が沈滞化し、インドネシア経済で力を持っていた華人住民には風当りが強かったのですが、クーデター後共産党員として粛清されたのは主に小さい商売をしていた華人という滅茶苦茶ぶり。この辺がまるで昔の「喜劇駅前」シリーズみたいなノリでドタバタちっくに展開されるので唖然としてしまい、そのうち一つの村がそのまま無くなるほどの虐殺シーンが例のパチチェラ青年団まで動員されて再現されるやさすがに気分が悪くなってきます。「俺が当時虐殺に加わってたら絶対村の処女とヤる」等のセリフには心底ムカつく。お前らどこまで過去を肯定する気だよ! でもそんな呑気に過去を振り返ることができるのは決して当事者ではないからなのにね。それはアンワルとともに尋問、虐殺を行ったアディ・ズルカドリやアンワルたちに指示してその手柄で出世したイブラヒム・シンクが登場するとだんだん観客にも伝わってくるのですが。

記憶を抹消させた元は気のいいアンちゃんと時間をかけて自己合理化したオッサン

 アンワル爺さんは昔の仲間だったズルカドリに協力を頼み再現しようとするのですがどうやって尋問したのか分からなくなって混乱するアンワルに「あの頃は事情はこうだったじゃないかと考えてみろ」とアドバイスします。アンワルは最初は自分の過去に虐殺した人間は罪ある共産党員と言い張っていたんですが、実際尋問の芝居が始まるとなんか俺酷いことしてないか今?と気が付きだす。そりゃアメリカ映画に憧れてギャングのスーツを着て街を闊歩していた若い頃と比べて今は二人の孫を猫かわいがりする爺さんだもの。そこでようやく自分がやったコトの意味を正確に理解したんだね。ズルカドリは尋問シーンの撮影でも終始冷静に的確にアドバイスするのがホント凄い。罪の意識の有無は超越した所でアンワルが強いショックに見舞われないように必死に撮影チームをコントロールしようとするの。政情が不安だったり皆まだまだ貧しい途上国での「賢明な市民の理性」ってそんな具合に発揮されるのかもしれない。ズルカドリは当時から自分のやっていたコトをあまりにも正確に理解していたから虐殺事件後は故郷からも離れた。そして家族と一緒にショッピングモールで買い物しながら、こんな豊かさを享受する前段階にはああいう事件が必要だったんだと相対化しているんだね。だからズルカドリは今現在だけを目にしながら過去の虐殺のコトばっかり考え続ける人生になった。ずっとそのことだけを考えていた彼の言葉はアンワルには重くて、ようやく尋問シーンを完成させる。捕まえた一般市民を尋問して処刑を決めたシンクの役をアンワルが演じる時の時の表情もまた凄いもんだったわ、劇的なんて軽く言えないくらいよ。

とにかく一番怖いのはえずいている爺さんの背中ぁ、に、呻き声ぇ・・・

尋問シーンを撮り終えたアンワル爺さんは再び自分が市民たちを処刑した例の屋上に再び出かかてもう一度、殺した仔細をはっきり思い出し再現します。監督が指示した以上にアンワル爺さん自身が振り返って確かめたい衝動につかれているのがはっきりわかるのさ。傍から見ると最初と最後の爺さんの振る舞いに物凄い差があるわけじゃないけど虚空を見つめて過去の記憶がよみがえる爺さんの背中に、どっ・・どうするんだよ爺さんて緊張が走りますが、案の定というか身をかがめて爺さんはえずきだす。思わず「ごく普通だっ」て思ったのですが、とにかく爺さんえずいてもなんにも出てきやしない。ただカラカラの呻き声が響くだけ、それがひたすら不気味。そして映画が終わり・・ああ、やっと終わったって観客の私らもどっと疲れたよ。どうするんだろう?と観終わって悩んじゃうしね~一部の報道にあるように虐殺された遺族や外国の人権団体では事件を掘り起こして罪を問えという声もあるみたいですが。一体何をどうすればインドネシアのあの人達皆が納得する算段になるのか見当もつかないぜ。この映画の後、同じ監督で続編も製作されたようなのですがまだ観ていません。多少とも建設的な「過去の収め方」ってあり得るんですかねぇ、この虐殺の場合。