たられば(IF)の女 ⑧ 「稲妻」の高峰秀子他

 

稲妻

稲妻

 

 成瀬巳喜男と女流の脚本家

 松竹のシナリオ研究所に通っていた頃に講師で井出俊郎先生という大御所が居てとても為になる映画産業黄金期の話をいっぱいしてくれたのですが、当時の私らはその手の話に一切興味がなく(-_-;)・・・殆ど皆井出大先生の話をボサーっと聞いているだけでした。その話の中で「ある有名監督が言うには女流の脚本家というのは構成については全くできないので構成については自分がやった」と発言していたとおっしゃっていたもんです。有名監督というのは成瀬巳喜男のことで女流脚本家というのは水上洋子とこの映画や流れる [DVD]でも井出さんとともに脚本を担当した田中澄江のことだと思います。ただその割に映画の展開について等、内実では完全に成瀬主導でいったわけでもないらしいという噺も最近は伝わっていて浮雲 [DVD]でもラストは水上洋子がほぼ決めてしまって成瀬としては凄い不満だったのにも係わらず代表作とされちゃったとかなかなかに複雑です。あとやはり水上洋子にしろ田中澄江にしろかなり作風に個性の違いがあって見比べてみるとどちらがより〇〇だろうか・・・と議論してみるのも面白かろうと思います。ちなみに高峰秀子は「流れる」やこの「稲妻」の出演時の記憶がどちらも殆ど無いというコメントを後に残しておりますが、この辺が田中澄江という作家の個性を見極めるポイントかもね。私たまたま田中澄江の一番最後のエッセイ集を立ち読みしたコトもありますがかなり毒舌な人でした、しかもなんか冷たいリアリスト。

父親が一人一人すべてが違うというきょうだい

 ザビ家の兄弟の先駆けと言えましょう(笑)。ヒロイン清子(高峰秀子)の母おせい(浦辺粂子)はいろいろあって生んだ4人子供の父親が凡て違うということになってしまった女。この時代死別も多いし、失敗して女房子供おいて出て行ってしまう男も多いからこの母親が特に男好きというわけではないのですよ。あくまでも残された子供と生きのびるために再婚を繰り返した生き方をしたむしろ控えめで優しいお母さんなんですね。清子は4人兄弟の末娘ではとバスのガイドをして経済的に自立している。上には兵隊帰りで未だ就職できずニートな兄嘉助(丸山修)と結婚した姉光子(三浦充子)と縫子(村田千枝子)がいる。ザビ家でいえば清子は「ぼうやだからさガルマ」のポジションにあたり嘉助はキシリア+ドズルってカンジ、そして長女の縫子と次女光子・・・この二人の女がとにかく悪い、悪い。光子の方はむしろ可哀想じゃないの?とお感じになるやもしれませんが不幸になった恨みもまたさらに己に向けるという・・・男性をとことん幻滅させるという意味では悪い女だといえますね。成瀬巳喜男映画をガンダムネタで説明してどうするつもりかいっ?・・・というのはさておき、物語は清子に縫子がやり手のパン屋綱吉(小沢栄太郎)との縁談を持ち込んでくるところから始まります。

食卓のない家

 縫子は綱吉と一緒に旅館(まあ要するにラブホ)を経営して自分の旦那はほったらかし、早い話がすでに綱吉とデキている。その上で綱吉と清子を結婚させようとしています。この時代結婚適齢期の女性13人に対して男性1人というほど男性にとって売り手市場の婚活状況だというセリフもあるくらいなので、この綱吉って男はかなり調子こいている。根が賢明だし商売上手なので一見腰低いからつい騙されそうになるけどね。ただ幸か不幸か清子の家の人達って皆それぞれバラバラで優柔不断なんだよ(笑)、兄の嘉助の就職の世話まで綱吉がするって外堀埋めようとすると、縫子の夫(植村謙二郎)が不倫に怒って夫婦喧嘩したあげく、行く処がないので清子の家に居候しだしてそれをおせいが面倒みてあげるとかもうぐっちゃぐちゃ。住宅不足で下宿人も置いてたり、次姉光子の夫が急死して実家に戻ってくるとか忙しないしね。清子は実家のどたばたに疲れ切ったのと何より綱吉、縫子そして光子の間のいざこざに嫌悪感を覚えて実家を飛び出すようになる。

 清子の家で特徴的なのはとにかく食卓が映らないこと。家族団らんのシーンもそれなりにあって、家族で蕎麦食べたりしているのだけど光子の引っ越しに集まって蕎麦を食べる・・・という具合に通常なら当然あるはずのちゃぶ台や箱前の類を意図的に失くしているのさ。食卓が無いという家には家長という存在や「父性」というものが欠如しているという表現なんでしょうね。母親のおせいは子煩悩で世話は一生懸命に焼くのだけど子供の教育には無頓着。そもそも女親が子供を教育しようだなんてのはダメだとされた時代だからしょうがないんだけど。ただそのおかげで成人した子供たちは一体何を規範として世の中渡っていいのか判断でいないし考えたことすらないからひたすら欲望と私怨だけで突っ走るしかないの。で、そういう状態だと結局弱肉強食の理屈だけが説得力を持つようになりますね。

家の中に「父性」はない、家の外に「父権」があるだけ

 おせいは子供たちそれぞれに「お前の父親はこうだった」と語って聞かせるのが精いっぱいだった。清子の父親は正直で誠実だったと清子に必死に説く。清子が仕事によって自立しようするだけなのを見て「お前の父親のようにイイ人も世の中には居るんだ」って。せっかく縁談が来たと思いきやその男が長女の愛人でおまけに未亡人になった次女にまで手を出している状況を目にしても何もできない無力な母親だから、そんな説得されても清子は困るわな。「父性」でも「母性」でもいいんだけど片親だけの家族だと子供に規範を教えるのは中々上手くいかないのかもしれない。「民主主義などという下等なシステム」みたいに発言するギレンにもザビ家のおとっつぁんは「お前はヒトラーのしっぽだな」と嫌味を言うぐらいしかなかったみたいに、おせいは縫子や光子の振る舞いを「父親のDNAのなせるわざ」のコメントだけで娘二人が暴走していくのを止められないのよ。光子は急死した夫に愛人と子供まで居たのを知らされて夫の保険金の一部を請求されたりしたもんだからすっかり心根がグレたのか綱吉の誘惑に乗りお店を出す。再婚なんかよりも金回りの良いパトロンを得てお店を出すような生活の方が楽ちんだからって。縫子に至っちゃもとより甲斐性のない夫よりも金と力が欲しいという欲望むき出しの女だから、美人だけど人畜無害だとタカをくくってた妹の光子に出し抜かれてオトコ取られたと知ってぶちきれる。姉二人の行動の規範は「結局カネ」だけだからさ。ただでさえ父性が欠如した家庭で育ってるから「家というのはキャッシュフローを生む箱」みたいにしか考えられない。女性がその意識で徹底すればより近代的な一夫一婦制の結婚に魅力は感じないようにもなるわさ。明治から戦前までの大都市圏だと中の上の懐具合の男性だったら妾囲っているの当たり前で妾には寡婦も多かったし。縫子に綱吉の仲を問い詰められて思わず「にやっ」と勝ち誇る光子の表情が怖いの・・・だって映画前半では尽くしていた夫に死後裏切られたのが発覚して清子だけじゃなく観客もすっかり光子に同情してたからさあ、その豹変ぶりはなんなのよ・・・もう清子でなくともがっくりくるよ。

「世間知らず」の清子、ある兄妹に出会う。

 実家を飛び出した清子は品の良い未亡人の家に下宿を見つけてホッとする。清子の家にいた下宿人の独身女性は教養がある女で食費を削っても蓄音機で音楽を聴く、なんてことにお金を使う。清子の家族はそんな生活スタイルのどこが楽しいんだってせせら笑うけど清子にしてみると「食費を削っても夢中になれるものがある」人間の方が豊かで文化的な生活を謳歌している気がして思いきって自分も挑戦したのさ。綱吉はそんな清子にがっかりして「縫子さんなんかこっちが頼まなくでも(自分に)きたのに」って愚痴る・・・聞いて呆れるトコだけどね。ただ「昭和の歩くATM」としてしか女たちにちやほやされない綱吉も相当に不幸なオトコかもよ。で、この映画オトコを悪者にしない分、女の冷酷さと非道が目立つんだけどぉ・・女流作家に好き放題書かせるからだよぉ~。(苦笑)田中澄江はこの映画で東京生まれの若者が地方から出てきた中産階級で育った同世代に「驚いて憧れを抱く」様子を巧みに描いている、これだけでも日本の戦前から戦後の風俗の実態がうかがえるね。あと終戦直後の日本って結婚適齢期の女性たちの多くが独身を貫いたという「かつてない異常なディストピア事態」が発生したんだけど、どんな動機で彼女らが結婚から遠ざかっていったのかが「流れる」と合わせて観るとよく解かります。高峰秀子自身が当事者世代の代表として役を演じていたからぶっちゃけ怖くて記憶が消失したのかもしれないよ。

 でも最後の最後、下宿の隣に住むさわやか兄妹(根上淳香川京子)の登場によって清子の周囲がガラッと変わってしまう。兄の周三は妹のつぼみをプロのピアニストに育てる為に働いている男性。清子は兄の庇護のもとつぼみが奏でる可憐なピアノの音に惹かれて二人に出会うって・・・突然乙女チックに話が反転する。まあこの部分が映画の唯一明るい部分といやあ言えますが。そんで実家の母から「縫子と喧嘩した光子が家出してどうしよう」と助けを求めてきて母親を安心させて送っていくという場面になる。「稲妻が鳴れば光子姉さんは帰ってくる、姉さん昔から稲妻を怖がってたから」って。平穏に終息するか波乱になるのかぁ・・・の余韻を持たせて87分と短め。なんか「キミは生き延びることができるか?・・しゅうぅぅ」ってカンジで終わります。しかし光子はどうなったのかな、ザビ家の二番目のきょうだいは一年戦争前に死去してしまったが。