法螺あぁぁーな女 ④ 「ゆれる」の真木ようこ

 

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 怖いを通り越して「怒り出す野郎」が続出した・・・事件というかエポックというか

 えーっと、ちょっと前に流行ったんですけど「ジェネレーションX」てゆう単語を覚えていらっしゃる方おりませんか? アタシつい最近まで「なんじゃそりゃ、かのメリケンではそんな世代の分け方があるのかい、でもうち(日本)の方ではカンケ―ないわさ」とタカをくくっておりました。1966~75年に生まれた人間を「X」というんだそうでその前の1956~65年生まれはかの「ベビー・ブーマー」というんだそうだ。でもこれ、どうやらグローバル的に「適切な世代間」の分け方らしい・・・ということを私はこの映画で学んだのだった。平たくいうと、65年生まれ以前の男性映画ファンや関係者はおおむねこの映画大嫌いで、66年以降生まれのオトコ連中には(女流映画監督作品の中でも)かなり評価が高い、そういうことですね。どうしても好きになれなかったタイプがこの映画についてdisる際に「女の監督のクセにどうして女の登場人物をきちんと描こうとしないんだ」とまで言ってたみたいです。私自身は評判になってプロットの説明を受けた時に「一体何がやりたい映画なんだ?」としか思わず、ウチの師匠(故下飯坂菊馬)が聞いたら、即「こんなプロットは映画として成立しないから「ペペル・モコ」でも観てイチからやり直せ」と断定されるんじゃないかしらん(笑)、とかね。で、観てみたんですが、オンナが撮った「文芸ちっくなヴァイオレンス」だった、かなりの掟破り。なんたってあのサマリア [DVD]の女子高生はラブホの二階から落ちても「あんなとこから落ちて死ぬわけないだろー」と突っ込みを入れられますが、橋から転げ落ちてあっという間に死んでしまう真木ようこの場合だと「川、浅瀬がたくさんありそうだし、それに日本のインフラは優秀だからそんなには揺れないじゃんか橋」という突っ込みできないもんね。・・・それって何故かというとあの時の真木ようこは発作的に自殺したっていう示唆が映画できちんと示されているからだよ。

「橋」というのは日本人にとって「男女の間をつなぐ」もの

 ・・・みたいだよ。当時30超えたばかりの女流監督がそのヘンをどこまで意識して「不安定なつり橋」という設定を作ったのかは知らないけど。ただこの映画観た男子の方たちまず心理学における「恋のつり橋理論」を想起するんでしょうけど、ソレ思いっきりぶっ飛ばしてヒロインを消してしまった。よっぽど何かに怒っている女性でないとこうは作らないような気がする・・・。(ガメラ 大怪獣空中決戦の時のガメラなんて伊原剛志中山忍をくっつけようと気を使ったのか、橋は壊さないようにギャオスと戦って消耗してたのと比べてもとんでもない破壊力さ・・・あ、でもいい加減ストーリーを紹介しよう)主人公は東京でカメラマンをやっている早川猛(オダギリジョー)、母親の葬式に故郷の山梨へ帰ると実家でやってるガソリンスタンドで自分の元恋人で幼馴染の智恵子(真木よう子)が働いているのを知る。ガソリンスタンドは猛の兄稔(香川照之)が取り仕切っていて智恵子とも仲が良さそう。猛は上京する際に智恵子と別れたのだけどお互いわだかまりがあって、猛の方では自分が成功するとは思ってなかったから智恵子は付いてこなかったという気があるし、智恵子は智恵子で高校生当時と現在とじゃ状況が一変しているので自分は今後どうして良いか分からないままガソリンスタンドでバイトしていたところに猛が突然帰郷してきたのでありました。兄貴の稔は弟とかつて恋人同士だったのを知っているのかどうかも定かではないけど、智恵子に好意を抱いているようだしね。フランス映画とかちょっと前の日活ポルノロマンでもよくあったような設定なんです。ただ猛と智恵子の場合は再会してあっけなくセックスだけやっちゃう、もう「タメ」の芝居は何もないまんま。こういう所をさっさとやっちゃうので「ベビーブーマー世代」から年長の人間にはカチンときちゃうというか「女の監督のクセに女性をきちんと描かない」って憤るんでしょうけど、うちらより年下が大多数の「ジェネレーションX世代」の、特に女子連中からすると「オンナの視点から男の性欲を結構リアルに描く」ってのはやっぱカンジ悪いと取るんだね(笑)とオッサン達の反応を理解するでありましょう。猛は嫉妬に駆られて思わずやっちまったのを取り繕おうと兄貴に釈明しようとしてあっさり二人の情事がバラしちゃうし、稔が突然兄弟と智恵子の三人で川へ遊びに行こうと言い出すとムキになって兄貴との心理的な兄弟げんかを始めだすし、とにかく映画前半は「ロクなこと」しないのだ、この主人公。

川の「つり橋」事件の真相とは?

 川でのピクニックは三人三様の「意思の確かめ合い」へと次第に移っていくのだけど三人とも実は「ココロが宙ぶらりん」で揺れている。兄弟は兄弟で智恵子がよりどっちに惹かれているのか確認したいだけだもんね。智恵子自身は正直男性としてどっちがいいかなんて次元の問題じゃないんだよ、生まれ育った土地でガソリンスタンドの嫁になるのと猛と上京してよく解からない生活を送るのとではどちらの方が自分にとって向いているかで幸せは決まってくるていうことだから。智恵子って女性に意志というものがあるのかと問うのは簡単だけど、家族や近隣住民との濃い人間関係の中で育ってきた女の子にとっての恋愛観や目指す幸せの形というものはそれなりにあって、またそういうタイプの女性だから基本的に田舎育ちの男どもはお互い争うんだもん。

 猛に拒まれたと感じた智恵子は子供の頃から苦手なつり橋を渡ろうとするけどやっぱり怖くて動けない。稔が助けに入ろうとするのを思わず「触らないで!」と撥ね付けてしまう。で、この直後に智恵子は橋から転げ落ちて川で溺死してしまう・・・。この後はあっという間に事件化して警察側の人間(ピエール滝)や裁判の話に移行して検察官(木村祐一)、弁護士(蟹江敬三)だのもでしゃばってくるわで後半はサイコホラーなのかメロドラマぽいホームドラマなのか一見解からない展開になっていきます。・・・あんまりコレ言ってよいのかどうかなんですが、蟹江さんが稔の弁護を引き受けるだけでなく実は父親(伊武雅刀)の兄貴っていう設定になってます、もう映画途中でムカついてるタイプの男性ほど「いい加減にしろよ! こーいうのは最低だ」とキレることでしょう。でも「此処だけは解かってもらう為にいくらでもやっちゃう」のが特に日本女性のクリエーターには多いかも、それがまた昨今成功するんで私としてはもう良し悪し判断できないのさ。・・・この映画演出についても他に美点がいくらもあるので、観客に対して一点の事柄についてのコンセンサスを求めるのが目指す表現の目標のひとつである、てのはどうかなあという気もするんだけどね。

とても繊細で丁寧だから、きちんと鑑賞すれば「ちゃんと理解」できますっ

 公開当時日本の若者だけでなく韓国の若者にもヒットしたというのはおそらく日本の映画界にとっては「ちょっとした事件」でこの映画気に入らなかったオッサン達には恐怖以外のナニ物でもなかったんじゃないかと考えます。山梨の富士吉田でほぼロケーションされたそうですが、そういうことは自動車のナンバープレートをはっきり見せることですぐ判る。で、「車のナンバープレート」をはっきり画面に見せるような撮り方を日本映画ってそれまであんまりやってこなかったんだよね・・・チクっちゃうけど。それに映画冒頭のお葬式のシーンや居酒屋や映画ラスト近くのファミレスのシーンなど皆が集まる時で私が秀逸だなあと思ったのはヒトとヒトの間が近いのよ、パーソナル空間が狭くてきちきちに座ろうとするの、お互いに。地方だから外では「人口密度が低ーい」んだけど、人間関係は密度が濃い。そういう地域社会特有の「抑圧」と「居心地の良さ」って表裏一体だからさ。ガソリンスタンドでバイト店員だった洋平(新井浩文)なんかは最初なーんにも考えてない若者だったのに稔が服役することになって、その数年間に結婚して子供を作ってあっという間に「地元の大人」になっちゃう。猛はそんな洋平と田舎のファミレスで再会して内心愕然とするんだもんね。一方の猛といえば智恵子の事件から時間が止まったというより「時間が止まってしかも凡てが劣化した」ような生活にいつの間にか堕ちている。仕事は停滞気味でアシスタント達も居なくなっちゃったし部屋はゴミだらけ、変わっていないのはカッコつけて買ったクラシックな中古の外車ぐらいのもんだね。外車は根が田舎者で突っ張って業界人やっている猛自身の象徴で、兄貴の稔の方がよっぽど都会でも田舎でも「日本を支える一般的な中間層の典型」で通る外見だったりする・・・こういう一見些細にみえても、きっちり演出として描いているから若い人にも解かり安かったんですね。今までの「故郷に戻った都会人気取りの主人公」になってる映画ってこういったビジュアル戦略とかテキトーだったような気がしてた。それと「都会人気取りの主人公」ってたいてい若い女(都会で不倫してたとかいう設定がやたら多かった(笑))、まあその手の日本映画って一体誰が観に行くんだろうって長年不思議だったし、心底大嫌いなタイプの映画だったので、その点じゃこの「ゆれる」観て正直「胸がスカッと」したよ。

でもよう子さんには「やっぱり橋を渡って」欲しいのかい?

 ちなみに私がそれなりに都会で出会ったジェネレーションX世代の地方出身の女性たちで「故郷が嫌いだから上京してきた」なんてヒトはほぼいなかった。社会人に至ってはゼロでしたね。そのかわりたいてい故郷の実家は親の離婚や死別で離散状態&彼氏と一緒に上京後、破局して「梯子外された」状態の女たちが殆どでした。真木よう子=智恵子さんというキャラはそんな都会にしがみ付いて生きていくしかなくなった地方出身者の女性が「もし上京せずに故郷に留まっていたら」というバージョンなの。だからつり橋を渡らずに消えてしまうのさ。どうせ故郷にいても居場所がはなから失われていたんだから、彼女たちは。田舎にいると周囲は「誰かもらってくれるんだから」とか何とか言って若い女の子に自由に何かをやらせてくれるわけでも無いし、「俺にまかせとけ」なんていう男はいつまでたっても現れないわ、すぐキレて僻むわじゃ人口密度高いという一点のみで都会を選択するしかなかったのよ。未だ「ゆれる」ショックでココロが揺れてもいいんだけどさ、少し別の視点でもモノを考えればっ。

法螺あぁぁーな女 ③ 「トウキョウ ソナタ」の小泉今日子と井川遥

 

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 怖いか? っつたら怖くないかも・・・でも怖くないかっ、といったら結構怖い

 とにかく日本映画は「リアル描写やり過ぎるとホラー映画化する」と考えている私です。で、その手のリアルやり過ぎてホラー化しちゃった映画の中でも別格に有名なのが世界のクロサワの天国と地獄[東宝DVD名作セレクション]でしょう。アレ観たヒトは映画の序盤からめまぐるしく展開し、やっと見えない犯人に辿り着いたと思ったら、いきなり横浜の黄金町界隈が「ゾンビ空間」になっているのに遭遇するので思わず怖くて事件解決とかどうでも良くなっちゃうとか思い出してくれますよね。公開当時はヒロポン覚せい剤)の恐ろしさが叫ばれている頃だったんでつい勢い余ってやり過ぎちゃっただけなんでしょうけど。(あんまり怖いとヒトによって怖がるより怒り出すことがあるもんで<あの頃映画> 砂の器 デジタルリマスター版 [DVD]は好きだけど「天国と地獄」はあんまり好きじゃないとかいうミステリマニアな女の人いるくらいだもんね)ただ現在は21世紀なのでやり過ぎてホラー・・・を確信犯で生み出すといおうか「普通の映画のふりして実はホラー」みたいなのもあるやもしれません。この「トウキョウソナタ」の場合一番怖かったのは、むしろ何気なく観たワイドショーで小泉今日子主演でカンヌ映画祭で映画賞もらったてんで紹介されているのに、集まった芸能リポーター達が非常に怯えていて脇役で出演したアンジャッシュのヒトにしかインタビューしようとしない、という場面に出くわしたからで、なんで? とよく観たら小泉今日子井川遥が一緒に出ているらしいという事実に気が付いた時でした・・・それって怖い。そういやまだ近作の日本映画自体に慣れていなくて、日本発のサイコホラーというだけでエグそうだと考えていた頃、「CURE」が公開されて、主人公の友人で精神科医役をうじきつよし氏が演るということが判明するまで一瞬でも観てみようと考えて止めたコトを思い出しました。なので当初は鑑賞NG、ようやくここへきて決死の思いで観てみました。

リアルなトウキョウ? ・・・よく考えてみたら突っ込みどころ満載のはずなのに

 なにせ主人公の佐々木夫婦(香川照之小泉今日子)の長男貴(小柳友)が米国の外人部隊に入隊するというとりあえず現代日本ではありえない設定を「ヘンだろそれ」と真っ先に指摘する人間がいなかったもんね公開当初は。すごーく日常的な描写が続くのになにか現実の日本の東京とは違う異世界ちっくなズレを感じるのだっ。なんだか「ガイジンから観た日本」みたいなのか?と思ったら脚本のマックス・マニックスという人は在日10数年の経験があるオーストラリアの方なんだとか、へぇー。確かに日本社会ってこうゆう所があるんだろうけど、なにか「デフォルメ」されてる感じ。・・・まそれだってフィクションなんだから当たり前なんだけど「トウキョウソナタ」にはその他の日本のホームドラマ映画とは違った「トウキョウの掟」が存在してる。で、それを次でご紹介します、ホントはこんな短いブログで説明するのは無理だけど。

その①「トウキョウ」で失業すると、「ゾンビ」と化す野郎が存在する

 まずお話は佐々木家の父(香川照之)が上場企業の総務部のリストラに遭い失職するところから始まります。妻や子供に自分が会社リストラされたと知られたくないので、毎日背広にネクタイ絞めて職安に出かけてお昼代も節約して公園の炊き出しのおつゆでガマンする。炊き出しにはホームレスだけではなくサラリーマン風の男たちも一杯、あろうことか高校時代の友人で同様にリストラされた黒須(津田寛治)にも再会して黒須の家族への偽装の協力までしなくちゃいけない。ここでは炊き出しを求める集団や職がなくてふらふらと歩く佐々木父や黒須、あと次男健二(井之脇海)のクラス担任で健二の発言のせいで学級崩壊の危機に直面する小林(児島一哉)とか、どこかでこいつら見たような、そうだ! 昔プレステで見たバイオハザードのゾンビがいっぱいいる!だったのであります。私以前から「バイオハザード」CMとか観るたびにいくらジャパニーズ・ホラーといったって平たい顔族の日本人にはゾンビは無理、憧れちゃうよね~と勝手にホラーファンの心情に思いをはせていたのですが、本家「ゾンビ」のロメロ監督作のバイオハザードのCMや肝心のミラ・ジョヴォヴィッチバイオハザード (字幕版)にはゲームのバイオハザードぽさが微塵も感じられないのが不思議でしょうがなかったもんです。で、香川照之が怒りに駆られてゴミをスイングするように蹴散らしている姿に、こんな所にプレステのバイオハザードがあったなんて!という衝撃を受けたのさ。映画鑑賞前にTV放送の予告編をやっててそのシーンが抜き出されて初めて「怖いもの見たさ」の興味がわいてきたのだよ。

その②「トウキョウ」では男女の役割分担がはっきりしてる・・・無茶なくらいに

 失業男性は家の外へ出てゾンビ化するのにも関わらす、この映画に出てくる女性達がゾンビになることはまずありません。もしそうなると黒須さんトコのように夫婦無理心中てことになっちまうからなんでしょうか? 家の中一人ぼっちで不安な気持ちなのに佐々木母(小泉今日子)は夜ソファーに寝っころがって「誰か私を引っ張って~」とか呟くのですが、キョンキョンなら他人の力借りなくとも一人で充分キョンシーやれそうな気がしないでもないですがね。(それとも何故に日本の父親は妻とか子供に引っ張って起こしてもらおうとするのか謎、っていう暗示なのか(笑))対して井川遥が演じるのは健二が親に黙ってピアノを習う教室を開いている金子先生という役柄で彼女は子供無で離婚が成立したばかり。このへんは特に健二君に感情移入できた時点で小泉今日子井川遥が二人交互に登場するの、意図が明らかっていうか、あからさま過ぎるカンジもしますね。それで現代の日本の観客は観ると却って恐慌をきたすっていうことかい。そんでもって佐々木父を代表とする男たちの世界では男女の役割分担はっきり=男はよりマッチョを極めようとして更に暴走していく。長男は頭丸めて兵隊になりに渡米するわ弟の健二は父の怒りを買って二階の階段からパタリロみたいにすべり落ちてくるわ(どうやって階段からすべり落ちてこれるんだと思った時とっさに浮かんだ)健二の友達の同級生(皆木勇紀)なんか「お父さんに怒られる~」と叫びながら万引きした店の店長たちに追いかけられてるわ・・・(どさくさにまぎれて役所広司も強盗にやってくるし)みんな無茶し過ぎだよ。現実は明らかに見た目小学生なら無賃乗車で捕まって黙秘を通したとしても「大人と一緒に留置場」になんて気の利いたことを日本の警察しそうもないし(・・・と思うんだけどな)、佐々木父も再就職先としてゾンビの聖地(ショッピングセンターね、昔「ゾンビ完全版」の予告篇だけ観たことあるからそれぐらいは知ってる♪)へと追いやられたけど、職場の先輩のオジサン(でんでん)とか意外と生き生き働いてたよ、そんな焦んなくてもいいのにぃ。・・・でも家族はどんどんテンパっていって、ある瞬間で憑き物が落ちたように平穏な日常に落ち着くのさ。なんだか知らないけど、文字通りバイオハザード(伝染病や未知の細菌、自然生態の変異による災害)が蔓延していたのが終息迎えたみたいだ。

その③ 実は「過去の名作ホームドラマ」のルーティンで構築された世界、か?

(この決めつけだとあんまりだわと怒るヒトいそうなので東スポ風にしてみました)けど、決して悪口じゃないんですが。で、ラストではいきなり健二君が音大の中学の(おそらく入学できて)ピアノ実技試験をやるので両親が試験場に駆けつけて演奏を聴く、という場面で終わります。この映画台詞で「小学校卒業まであと3か月」とか、3時間前というテロップが入ったりするシーンがあるので、それを頼りになんとか時間経過が判るというか、ピアノを弾く健二君自身も少し大きくなってから撮影されているようです。日常的な出来事を描くのがホームドラマだとすると、一番ネックになるのが「時間の経過」ってやつでしてごく最近でも一つの家族映画を撮るのに12年間かけたとか話題になったばっかりですよね。特に日本は四季があるので昔の小津映画のように「9月末ぐらいから翌年4~5月ぐらいに時間すっ飛ばす」という適当なことが結構お約束=ルーティーであったりしたのでした。最後の最後に強盗が飛び込むとか、大金を拾ってテンパったあげくにひき逃げされるとか、いきなりボンボンエピソードを放り込むのも拗れきった家族の間の感情の相克が解けていく時間と手間を短縮するために割とよく使われる手だったりする(笑)・・・70年代のカサヴェデスの映画や日本のTVドラマでも山田太一作品じゃ定番であったのですよ。でも馬鹿にしちゃいけない、だってこうゆうことは案外現実の世界でも聞くことあるからさ。(現実はフィクションのようにはいかないというヒトも多いですが、フィクションのようにいかないケースは「家族崩壊、一方的離散」という形で可視化されるだけ、ということも言えます)ルーティーンで構築されたホームドラマというのはまた「価値観が古ーい」と突っ込みが入りやすいタイプのジャンルでもあるんですが、「トウキョウソナタ」が凄いところというか、おっかないところは小泉今日子の母親に対して「そんなに不安ならパート勤めでもすりゃ気分晴れるのに」あるいは離婚した井川遥バツイチ女性に「アンタいくら女一人ったって自宅でピアノ教えるだけで食えるわけ?」というような突っ込みを皆さんなかなか(特に女性の方々)しなかった点でしょう。ピアノの演奏を見つめる母親がほぼすっぴんに近いのっぺり顔なのに対し、ピアノ教師の方はそれまでの「ナチュラルメイク」からいきなりクレオパトラのようなアイメイクに代わっているのでぎょっとします。資本主義の本場、ハリウッド映画のお約束だとクレオパトラのようなアイメイクして登場する女性は「後々マンハントします」宣言であることが多いですが、「女性は控えめに自己主張してほしい♡」願う男女の役割分担は明確であれの日本映画の世界だと、「女の人が経済的に自立すると男は必要なくなる」というモードに何故だか女性自身が切り替わってしまうという傾向を「ルーティーン」ではっきり表している場面になるので、それがとにかくリアル過ぎてシュンとしちゃうからでしょう。21世紀に入って新たに「世界のクロサワ」と呼ばれている御仁が撮った映画なので、こういうことさえ「想定の範囲内」でやったのか、それとも勢い余ってこんなんになっちゃったのかまでは私よく判んなかったです。あまりにも「これも計算のウチ?」と邪推しすぎると、ホームドラマがゾンビ化したみたいな映画もしくはホームドラマの形を借りて「ノーメイクでやる本格的なゾンビ映画」がヤリタカッタのか?・・・などと、どこまでもあまりに失礼な考えばかりが浮かぶ自分自身が怖いのでとっとと終わりにしましょう。

 

 

 

 

 

 

法螺あぁぁーな女 ② 「キサラギ」のキサラギ

 

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 「アイドル」はやっぱり凄いのか・・・

 後姿を引っ張るだけ引っ張ってって登場した如月ミキ(酒井加奈子)の丸顔を観た時、アナタはがっかりしましたか?それとも少しホッとしたのでしょうか・・・2007年公開当時からは「AKB帝国の覇権」が磐石になっている現在、「ラストの(ラッキイ池田振付による)ファンクラブメンバーのダンスは洗練され過ぎててオタ踊りじゃねえよありゃ」とか議論が更に白熱してこのブログ数なのでしょうか。ある意味この映画をホラー映画呼ばわりするのは、ごく簡単なようでなお且つかなり危険な気もしますが、頑張ってみよう(笑)。

Who are we meeting here now? ・・・な映画群

 以前にも書いたことありますが、かのレザボア・ドッグス オリジナル・サウンドトラックユージュアル・サスペクツ [DVD]と共通する構造をもったお話でございます、後のちにヒットホラーシリーズになった「SAW」なんてのもありましたよね。登場人物たちが「自分たちが出会おうとしている人物とは何物?」とずーっと悩み続けるうちにどんどん邪心暗鬼になっていき、お互いに殺伐としてくるというサスペンス。だから「Who?」なんですよね。そんでこの場合の「Who」にあたる人物すでに故人だというのがとても日本的で独創的、ついでにハリウッドの場合だとたいてい「Who」にあたる人物は「ゲイもしくはバイセクシャルな香りのする男性」なのに対し、キサラギミキは皆のアイドルになっちゃうのでした。実は私しばらくして「これって何かに似てるけど、何のお話だったっけ?」ぼーっと考えているうちに思いついたんですけど古事記の一番有名なエピソードに似てますよね? イザナギイザナミ+天の岩戸ってカンジ。慕っていた女性が死んで黄泉の国へ行ってしまったんだけど、男たちは集まって「いなくなって寂しいよぉ、僕らの太陽が消えてしまったよぉ、呼びかけに答えてよぉ」とどうしたら彼女のメッセージが受け取れるか延々と相談しているお話のようです。天の岩戸に籠ってしまったアマテラス大見の神がいないだけで何故にここまで人々が大騒ぎするのだろうとコドモの頃から理解できなかったんですけど、「キサラギ」観てたら、そうか「古事記」って日本最古のホラーで日本人の文化DNAに深く刻まれているものなのねと納得しちゃった。原作・脚本の古沢良太さんって方はホント真面目なヒトなんですね、日本映画って作る人間が真面目なヒト多いもんですから現実的表現(リアル)追及しすぎてリアルを通り越してホラーの領域にたどり着いてしまう傾向があるので、普通の映画でも「怖くて泣きそうになることあるぞ」と日頃から注意はしているのですが、このヒット映画もその手の典型的ホラー喜劇になっちゃったのだ。

お前にとってのミキちゃんとは何なんだ!

 そんなことを4人の登場人物達はお互い延々と詰問しあう、ただそれだけの芝居なんですがなんだか怖い。最初は一年前に自殺を遂げた売れないアイドルの如月ミキをしのんでミキのファンサイトを運営する家元(小栗旬)の呼びかけに集まっただけだったのですが。やってきた連中は福島の農家で安男(塚地武雄)、オダユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)、いちご姫香川照之)という方たち。オダさんは来るなり「喪服着用にするべきだ」と主張するんですが、そうすると家元といちご姫の二人は既に喪服は用意済であったりする。そしてミキの本当の死の真相に迫って行くという展開になります。4人ともそれぞれ如月ミキのファンにも関わらずそれだけではない「彼女との関わり」があってそれぞれ当人の抱えている秘密であったりもして、それもミステリー・・・な感じにはなっています。いくら売れないアイドルといってもここまで関係者以外のファンが存在しない玄人受け?アイドルっているのか?・・・という疑問が一瞬頭をかすめたりしますが(笑)、そんな突っ込みは野暮かもね♡

 TVのインタビューで小栗旬が「撮影怖かった」というようなコメントをしていた記憶があり、実際観てると小栗君はクローズZERO プレミアム・エディション [DVDなんかで暴れている時よりもよほど辛そうに見えました。確かに小栗君の役が一番「普通」でなおかつ難しい役ですもんね~、本来ならドルオタになるようなタイプじゃない、基本真面目過ぎるというか私の中学生の同級生で優等生なのに「松田聖子ファンであることが一番のアイデンティティでプライド」という男子がいましたが、彼のこと思い出しましたわ。でも周囲にそんな濃いアイドルファンタイプが居たヒトばかりじゃないだろうし(笑)、聖子ちゃんみたいな当時のビッグアイドルならともかく家元さんのココロのアイドルのこと映画の観客は誰も知らないんですもん、中学の時なんか「お楽しみ会?」みたいなクラスの集まりで件の彼は直立不動で聖子ちゃんの「風立ちぬ」を独唱して周囲を引かせた・・・じゃなかった(笑)、驚かせましたがそれだからって小栗君も「コレが如月ミキなんだぁ」とまず自分でやっていせる、わけにはいかないだろうし・・・?

「如月ミキ」になりたい誘惑・・・に必死で抗いたいっ!!

 で、アマテラス大見の神というのは昔から「両性具有の神」なんですね。陰陽師 2 [DVD]のラストなんか「アマテラスモードにギアチェンジして最強化」しないと野村萬斎さん敵を倒せなかったしさ。小栗君だけでなく他の三人と一緒に俺のココロの中に生きている「如月ミキ」を自分で表してみるっ!・・・ってやってみたら?っつーか「いっそのことやってみてくんないかなぁ」等とアタシのような女の観客は妄想したりするのですが、フツ―の男の観客にとってはさすがに禁忌(タブー)ですわな、いくらなんでも(笑)。(ちなみに4人の中で一人だけ誘惑にぐらついてピンクのカチューシャつけちゃう人物もいますが、彼の場合は多少その権利はある、という秘密の吐露の前振りになっています)

 というわけでラスト「如月ミキ湘南デビューライブ」の映像を延々と続けることによって、如月ミキになりたい欲望を封印するというか、CG処理その他によってミキちゃんが振り向いたらそこに俺がいた事実をひそかに暴露するというかね・・・でなんとか映画締めくくるのでありました。しかし声優酒井香奈子ちゃん自身のファンならともかく「ミキ役にクレジットで役名でる以外にも何人か微妙に体型の違う娘揃えて吹き替えに使っているに違いない」などと私メのように邪推する人間には騙されんぞ・・・だいたい歌唱力Z級という設定の割にちゃんと歌ってんじゃん(いかにも代々木アニメーションできちんとコミックソングの勉強?されていらっしゃるぽい歌声だ)「あどけない歌唱力」だったらオバサンの私はかつて二代目コメットさんだったアイドルの「伝説の武道館ライブ」とかも覚えてるしぃ・・・などと注意力散漫になりかけると、騙されてはいかーん!というおまけがついていました。・・・畏れとは、エンドレス(終わらない)だね。

 

 

 

 

 

 

 

法螺あぁぁーな女 ① 「クロユリ団地」の前田敦子

 

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 前の席に座っていた女子高生たちは

 観に行ったのが池袋のサンシャイン通りだったんで平日の初回なのに女子高生三人組がきゃあきゃあ言いながら映画館に入ってきたました。もう公開一か月を過ぎた頃だったのでコアな客層はもうあらかた観ちゃった後というか、見逃したタイプやら、話題のネタに観ておこうか~という感じ。女子高生たちだってモロ「前田のあっちゃん女優に転身って大丈夫?」みたいなミーハー丸出しで来ていたクチだったのでしょう。私はホラーが苦手、それも日本の怖い系映画は外国モノより倍以上怖いと普段から感じている所為でなかなか日本のホラー映画は観ないのですが、これだけは何となく「観に行かなくちゃ」という気になってました。それでも腰が重く、近場でサクッと行けるならとっとと観よう・・・ぐらいだったんです。それもあってつい吃驚しちゃったというか、思わずその年の映画の個人的ベストに上げちまったっつーコトなのです。それは今振り返ると映画終わった後の女子高生たちのリアクションもあったのも一因かな。

 …それで終わった後、彼女たちはどちらかというとかなりシリアスに怖がってたように感じました。

とにかくイマドキの「普通のおんなの子」

 なんだか古ーいカンジの「クロユリ団地」に引っ越してきた明日香(前田敦子)はひたすら張り切って元気いっぱい。やれ引っ越しソバをどうしようだの、お隣さんに挨拶のお菓子を持って行こうだの、今時「そんなベタにこだわらなくても」というくらいにせっせと引っ越し作業をこなしていきます。福祉関係の教科書を抱えているので、新学期に向けてやる気満々だなあエライなあホント古風で感心な御嬢さんという印象。ところが引っ越し挨拶に行った隣の篠崎(高橋昌也)家は家人がいるんだかいないんだか不明で、早速に不安が増大してしまいます。明日香の家だけが小学生の弟聡(佐藤瑠生亮)に父(勝村政信)、母(西田尚美)と賑やかな4人家族でなんだか浮いている。明日香はお隣さんはともかく、団地の公園で遊ぶ少年ミノル(田中奏生)という知り合いはすぐにできるのです・・・もうこの展開で大抵の観客にはオチが読めるというか、いい加減にブリっこは止めなよいい歳してという印象を持つ方も多いでしょう。確かにその通りなのですが、明日香という娘は映画のスタート時にはそれほどイカレているという訳ではなく、ただひたすらに繊細で健気に日々を耐えているだけなんだというコトがよく理解できる山場が中盤にあるので(以前にも書きましたが)私なんか思わずどひゃーと大泣きしてしまい、それでやたらすっきりしてしまったのでした。私の世代はどうしてイマドキの普通の子ってあんなに「繊細で共感したがりでやたら優しい」のだろうか?と不思議でならない時があるのですが、現代の二十代の若者はもの心着くころには阪神淡路大震災で多感な頃に東日本大震災物凄い喪失の出来事の間に挟まれて育ってきていることを考えるとしごく当然かもしれません。

 「クロユリ団地」はそんなかつてない程の災害続きで日本人の感覚が変わってきていることがホラー映画というジャンルを通してよく描かれています・・・まぁ非常に解かりやすく、エンターテイメント的に、てことも付け加えときましょう(笑)、ついでに。

限りなく「人災」に近い「天災」と「まるで天災に遭ったかのように処理される人災」

 明日香が幼い頃に遭遇した事故にしろ、篠崎の孤独死にしろ、かのミノル君の身に起きた悲惨な出来事にしろ誰かの所為にするには特定が難しいし、かと言って己の所為にするには可哀想すぎる内容ではあります。「誰の所為でもない、それが運命だったのだ」と第三者目線では結論がつくような話なのですよ・・・で、その理屈が昨今ではまったく通らない社会になりつつある。「天災は忘れた頃にやってくる」状態が「予想されるべき、避けられたはずの人災」に変化する一方で、「究極の人災」にあたる戦争なんかは「やあ、止めても無駄だよ」みたいな気分で日々報道されたりしてるでしょ?私個人的にはちょっといびつというか困った風潮だなあとも感じるのですが、TPOを考えないでそんなこと発言したら世間的にもネット的にも糾弾されそうだし、私自身も上手いこと述べられる自信がないけど。そうゆうことなのでもしブログ読んで「クロユリ団地」未見の方は、明日香が遭遇した事故は昔の御巣鷹山の話みたいとか感じながら観るのがお奨めです。「何かの誰かの所為じゃなければ、アンタの所為よ」というゼロサム思考で自分のやったコトを判断するしかないというのは物凄く苦しい・・・そんで「イマドキの優しい女の子」っていうのはそうやって自分自身を追い詰めていっちゃう。だからそんな明日香に救いの手を差し伸べようとする人間も後半現れてきます。篠崎の死をきっかけに知り合った笹原忍(成宮寛貴)とかね。笹原が紹介してくれる女霊媒師(手塚理美)も「やさしいヒトって疲れるのよね・・・」と慰めて明日香のマインドを換えようと説得してくれるし。・・・でも「クロユリ団地」における強烈な負の磁場っつーか、実をいうと明日香自体が磁場へ人々を誘い込むエサ的な存在かも? というくらいの阿鼻叫喚ワールドがクライマックスに用意されているのだぁぁ!

「ホラー」に関してはウルトラ級のオンチ

 な私ごときがこれから比較的最近に作られた日本映画の中から自分で勝手にホラーと決めつけた映画を語っていこうと思いますから、まあコアなホラー映画ファンは「冷笑しながら」読んでいただければ結構だと思います。だいたいその手の映画ファンが私のブログなど真に受けて、コメント残すコトもないでしょう。なにせ皆さんウルサ型ぞろいだしねー、ホラー映画のファンも「派閥」とかいろいろありそうだし、層がかなり厚そうだわ。私ときたら一体ホラー映画何に「興味が持てない」のか理由がハッキリ言って説明ができないくらいのオンチというか、スティーブン・キングの小説でも「長すぎて怖がるというほどの緊張感が持続できない」という理由でかの「シャイニング」さえ前篇で放り投げ、妹に「バカじゃないのお姉ちゃん」となじられた過去があるの。キューブリックシャイニング [Blu-ray]を観た時は「ジャック・ニコルソン顔面怖いわ、あんな顔ができるのは物心ついた時からきっと肉食って育ったからに違いない」ってつい注意力散漫になっちゃうし。わりと面白怖かったホラー映画で覚えてるのはチャイルド・プレイ HDリマスター版 [DVD]とか【映画チラシ】13日の金曜日PART8 ジェイソンN.Y.ヘだもんね・・・(-_-;)

そしてどうして「クロユリ団地」だけわざわざ見に行こうとしたのか?

 ・・・気まぐれだとしても。それはホラーオンチの映画ファンの素朴な疑問といおうか、以前から不思議だったんですけどホラー映画のヒロインというのは「怖がる存在?OR怖い存在?」というコトなんでございます。古風に「怪談」と「ホラー&怪奇」は別物と考えれば「日本の怪談話というのは主に女を怒らせると怖ーいというコトを語る為にあるんだっ」で終わっちゃいそうですけど、そんな古風過ぎる理屈で怖がらせる映画やドラマも漫画も私の子供時代でほぼ全滅しちゃったし。でもハリウッド系のホラー映画では「怖がるヒロイン」は「ホラーな要因を探り出して問題を解決しようとするヒロイン」でもあったんですね、結構昔から。それがエイリアン/ディレクターズ・カット (字幕版)あたりから「怖がるけど反撃するヒロイン」になったりホラー要素を加味したした事件モノの羊たちの沈黙 [Blu-ray]のような映画に変化して一気にメジャー化していったのでした。で、もちろんそんなハリウッド映画の変遷に影響された部分もあるからこそのリング コンプリートBOX [DVD]を初めてとするジャパニーズ・ホラーのブームが起こり、中田秀夫監督は自作のハリウッドリメイクを作りに渡米して、「一体ハリウッドの偉いプロデューサーたちに何て云われてたんだろう?」ということが漠然と気になっていたのであります。「Oh,no! 美シイヒロインハ、観客二トッテ怖イ存在デアッテハ成リマセン、最終的ニハ観客二希望ヤ自信ヲ与エルモノデナナクテハナラナーイ」などとあまりにもしつこく説かれると却って不信感を覚えることもあったりして・・・結局日本に戻り改めて本格ホラー映画に取り組んだら結果出来上がったのは「あまりにもハイブリットな怪談映画」だったわけだし。

 日本の映画ファンの中には「エイリアン」が登場した時にも「あんな物語全篇通してセクハラだらけの映画のどこにフェミニズムがあるんだっ」って怒って有名になった内田樹先生のような方もいらっしゃいます。なので私よりも遥かにホラー物全般に強くてフェミニズムにも詳しい学者さんがどっかにいて上手に解説してくんないかなあと思ってたりするんですが、誰かいませんかね。

 

 

 

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もうすぐ死んじゃう女 ③ 「ある愛の詩」のアリ・マックグロー

 

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かの「カップルが海辺で水掛け合っちゃう」イチャイチャシーンはどこから来たのか?

 フッフフフ・・・それはこの映画からだぜぃ(大爆笑)! あとやっぱり大昔のCMのダジャレコピーで「愛は後悔しないこと・・・つまり船には乗らないことネ」と武田鉄矢が何故かオネエ言葉で叫んでいたのを思い出す。それぐらい私の子供の頃に有名だった映画、いまどきの小、中学生にとっちゃタイタニック<2枚組> [Blu-ray]あたりが相応する、それぐらい「ベタな恋愛映画」の決定版さ!ついでに言うと物語の舞台はハーバード大のあるボストンなんで海よりは雪の降る大学構内なんかで二人が雪合戦(監督指示による即興芝居だったそうな)やるのが当時有名になりました。ニホン人はその前に帰らざる河 [DVD]あたりでマリリン・モンローロバート・ミッチャムが池に入って少しほっとしているシーンあたりをごっちゃにして受け取ったのかもしれません・・・と言う訳でカップルが海水浴に行ったら、まず海水を掛け合うという儀式をするのが長いこと日本の男子の憧れになったのではないかと。もっともいまどきの若いオトコが観ると主人公の「無防備」ぶりがちょっとだけ怖いかもね。

「・・・とにかく決して後悔しないこと」を地でいくヒロイン(主演女優)

 映画の企画はどのようにして開始されたのかについてはいろいろなエピソードがすでに知られておりますが、やっぱり一番強力なのはアリ・マックグロー自身が脚本を見つけてパラマウントに売り込んだっていうことですかね。彼女は大学生の時にモデルから映画界入りした時点でファッション雑誌等では有名だったらしい。いわゆる「個性的な時代の顔」で、映画スタジオが見出したり演技学校から出たたたき上げじゃない。70年代の映画産業は事業規模からいっても斜陽化してて、「君ってイケてるよ」と一部のマニアック業界人に持ち上げれていた程度の鼻っ柱の強い若い女でも強気で営業できたのでしょう、たぶん。映画のプロデューサーで後にアリの夫になったロバート・エヴァンスだって当時30代、監督のアーサー・ヒーラーはTVドラマの演出出身とそれまでのハリウッド大作を手掛けていたようなタイプではないし、ホントに「安い予算でがっぽり儲かる」タイプのヒット映画のはしりだったのでした。で、こういうビジネスモデルで手堅く稼ぐやり方をハリウッド以上に洗練させていってるのが現在の日本映画界だったりします。(笑)脚本担当のエリック・シーガルが小説版をすべて完成されていないうちから撮影が始まり、小説刊行のすぐ後に映画公開され双方大ヒット! メディアミックスのはしりとされているのですが、どうも手さぐりで必死に映画製作にこぎつける為いろいろ工夫するしかなかったみたい・・・ということがDVDの特典映像を鑑賞するとよく判ります。当時のアリ・マックグローは既に30才前後なんだけど、割に子供っぽくて年下のライアン・オニールの一緒でも充分お似合いな感じ。撮影中はプロデューサーのエヴァンスと結婚後ですでに妊娠していたんだそうですが、アリが演技に入れ込み過ぎて例の雪合戦のシーン、それからアリが言う「愛とは決して後悔しないこと」の名台詞のシーンも雪の振る夜の玄関で座ったまんまで彼女はいるわけですから、当時のエヴァンスさんは気が気じゃなかったそう。

決して後悔はしないけどぉ・・・

 ま、映画の内容は説明しなくとも「だいたいご想像通り」の展開しかないんですがDVDのパッケージや紹介にあるような「身分違いの男女の悲恋」というようなコトは殆ど描かれていないので拍子抜けする、ということだけ付け加えて置きましょう。それよりも大事なのは映画の主人公二人の出会いとお金の無い新婚生活に突入していくまでの「人生設計」というのが当時の米国の高学歴で中の上階級に至る若い、そしてあまり年の差が離れていない組み合わせの夫婦としては最も平凡で堅実なパターンだということです。私が愛読している翻訳ビジネス書にとなりの億万長者 〔新版〕 ― 成功を生む7つの法則というヤツがあるのですが、そこで医者や弁護士等の高収入でひと財産成を築いた専門職の個人事業者の方たち多くは多くが主人公のオリバー&ジェニファー夫婦みたいに、若いころ学生結婚して奥さんの方が教師等して稼ぎ、その間に夫が資格試験受けて出世の糸口を掴むというパターンを踏んでいる。それだからこそ、当時の観客は映画の最初のシーンではベタな芝居に照れてくすくす笑い、そしてラストには皆号泣できたのでしょう。要するに若者以上に中年以降の観客にとっても身につまされる内容だったってことよね。雪に覆われたグランドのベンチに一人で座るライアン・オニールの姿から始まって最後の最後にまた出てくる、そこで映画は終わる。中年も老年もライアン・オニールの気分になっちゃって「愛とは決して後悔しないこと」なんてナレーションがかぶったらそりゃあ泣くよ、だって充分結婚生活楽しかった平凡なヒトが自分の将来や老後を想像してしまうわけだから。

「何事も後悔はしない女」の破壊力

 アリ・マックグローは「ある愛の詩」成功後、パラマウントの重役夫人としてエヴァンスとの間に一児をもうけ普通なら幸せの絶頂を迎えるところなのに、「ゲッタウェイ」で共演したスティーブ・マックイーンの元に走り、結局7年結婚したところで捨てられてしまいます。スティーブ・マックイーンの伝記ドキュメンタリー映画をTVで観たことあるんですが、マックイーンとのなれそめ等のエピソードを窺う限りは、結局アリ・マックグローって気が強いだけの世間知らずなお嬢様っぽい女なのか、という感想をどうしても抱いてしまいます。しかしアリと離婚したマックイーンは末期がんに罹って死去してしまうし、エヴァンズPの方はかのゴッドファーザー [DVD]を手掛けている最中にアリに去られてしまい、その後さらに人生のどん底を経験するなど波乱万丈。ライアン・オニールも徐々にトンデモスター化していくという具合。対してアリの方は映画を干された時期もあったのでしょうが、なんとなくTVドラマに出演したり(昔アリ出演のTVドラマを観た記憶がありますが、当時の中年期の女優さんとしては圧倒的に美人だった)、60代に入ってブロードウェイに進出と思い出したように復活してはそこそこ評価を受けているようすです。彼女、割と「人生のギャンブル」では失敗しないのかも。(笑) それにしても「余命わずか」のヒロイン役で当てた女優さんはご自身についてはタフネスな方が多いような印象をうけます。吉永小百合サマはもちろんのこと、彼女のおかげで「何かしら破壊される」周囲の男どもに対し、総てはいい経験で全然へっちゃらで元気よ♡のアリ・マックグロー・・・、「死ぬ前に・・・」の主演のサラ・ポーリーでさえ昨年日本でも公開された物語る私たち [DVD]では彼女自身の事実は小説より奇なりな生い立ちが紹介されるなど、今回取り上げた映画の主演女優さんたちは薄幸の美女どころか皆さん食えないタイプぞろいなのかもしれません。そういや生前に棺桶に入る経験すると長生きするっていうしねぇ、それと一緒か。(笑)

 

 

もうすぐ死んじゃう女 ② 「死ぬ前にしたい10のこと」のサラ・ポーリー

 

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物凄い数のブログ数・・・(驚) 

 私以外の方がすでにブログで言及されている数としては今回が最多でしょう。もっともさっき確認したところ、以前にやった百万円と苦虫女 [DVD]の方は400件近くに達しているけどね。とにかく自分もこの映画について何か言いたいわっ、などと各々コメントが盛り上がる作品には共通点があって大抵は「女性が主人公で製作側も女性」というケースですね。男性の中にはアルモドル監督は好きだったのにがっかりした・・と早とちりされている方もいらっしゃったようですが、スペイン映画の巨匠アルモドル御大は製作総指揮で監督はイザベル・コイシェという女流監督さん。菊池凜子が何故か築地で働く女殺し屋を演じた映画(ちなみに押尾学最後の出演作として話題になった?)をこの後手がけてます。割とミーハー好みなのか(笑)ヒロインのスタイリッシュな母親役がブロンディのヴォーカルのデボラ・ハリーだったり、同僚の中年女性役がアマンダ・プラマーとどことなく豪華なキャスティング。後、特筆するべきなのが余命二ヶ月のヒロインと不倫の恋に落ちる男性がマーク・ラファロ。彼はアベンジャーズ最新作で超人ハルク演ったり、フォックスキャッチャー Blu-rayでの金メダリスト役でオスカー候補になる等、今ハリウッドでも「実は美女にモテる男」ポジションを獲得しています。私自身にとってはそんな陰鬱な映画ではなかったですがね、だって登場する食べ物が皆素朴で美味しそうなんだもん♡・・・て理由だけど。

家族には内緒にするのよっ

 23歳にして二人の娘がいるアン・マトランド(サラ・ポーリー)はある日病院の健康診断の結果で呼び出されるや、医師トンプソン(ジュリアン・リッチングス)にいきなり自分が末期がんに侵されていて延命治療を受けなさいと告げられる、余命は二か月。アンは痛み止めの薬と点滴以外の治療は拒否し、トンプソンには家族にも夫にも自分の病気を知らせないでほしいと頼むのでした。アンは17歳でできちゃった結婚をし、夫は失業中で母の住む実家の庭先を間借りしたトレーラー・ハウスで生活してます、もう毎日が6歳と4歳の娘の世話、自分の仕事、夫の世話や家事、実母との淡々としてるけどシンドイ確執を抱えながらの日々が何年も続いていたのでした。そりゃあ自分の余命のことなんざ家族に明かしたくはないわさ、だってただでさえ綱渡りの日々の生活が更に大変になっちゃうもの。余命宣告はおよそ自分だけに伝えてほしいものだよねぇ、ある意味ヒロインはラッキーという感想を持った方(特に所帯もちは)多いことでしょう。そうしてこの「自分だけの秘密」を手に入れたアンは残りの人生を精一杯楽しもうと計画を始めるのでした。終活なんて言い方はつまんない、せめて「死ぬ前にしたいこと」を考えたいよね。

ジンジャー味のキャンディーって・・・ちょっと食べてみたい

 告知の際にトンプソン医師がアンにキャンディーをくれる。「少し落ち着くよ」ってね、それで必ず最低月一回は通院するようにと説得する。この時のキャンディーがアン曰く「ジンジャー味ね」てことらしいんですが見た目は黄色で、アタシは思わず「ジンジャーレモン味とかなのか?」とうがって考えちゃいました。アンはこのジンジャーキャンディーが気に入って通院の時はしばしば医師からもらうしね。そんでこの後もアンの母親が仕事で作っているちょっと崩れたマフィンやら、アンの家の夕食にでてくるブタのスペアリブの煮込みやらがとても美味しそうなの。女流の映画監督が男性より唯一、演出で得意な分野があるとすればそれはだいたいお食事の描写であることが多いのさ。しかもこの映画では「美味しそうな食事風景」=「ささやかで幸せ」の表現と直結していて、アンの食事で一番まずそうなモンが登場するのは、彼女がダイナーで一人「死ぬ前にしたい10のこと」リストを作ろうと試みる時に頼む売れ残りのケーキなのだ。ダイナーでアンが「誰か一人の男を虜にしてみたい」等とボーっと考えていると、ホントに彼女を見初めて夢中になっちゃう近所の男リー(マーク・ラファロ)が登場。ダイナーで頼んだマズイコーヒー&ケーキでの欠落を埋めるように、その後コインランドリーでアンに再会したリーはコーヒーをアンにおごってあげる。食い物に釣られて恋が始まるていうことに対してリアリティが持てない人間にはまったく不自然でしかない、唐突な恋の落ち方だけど「きっとアンがもらうキャンディーは本当に美味いに違いない」から映画のノリにハマった者はほっこりしてその後はラストシーンまで気持ちよく泣けるはずさ。

「10のこと」はすべて残された愛する人々に対する「10の贈り物リスト」なのさ

 23歳の若さで死のうとしているアンにとって何よりの後悔は「人生において自分自身の時間はついに訪れることはなかった」ということなのね。そりゃあ17歳で妊娠、結婚した夫とは初恋だったかもしれないし、彼にとっては今でもアンとの出会いは「ロマンチックなまんま」かもしれないけどそれは同時に十代で二人の時間は止まっているということでもあるわけ。で、結局二人に何が起きたんだか理解できないままひたすら生活に追われている。アンの周囲の女性たち、辛い人生を「ひたすら仕事でもプライベートでもケーキを焼く」ことで慰めているアンの母や失恋の痛手を克服する為にダイエットに血道を上げるアンの同僚ローリーやアンの家の隣人として登場するアンと同じ名前の看護師(レオノール・ワトリングにしろ、皆「自分の人生と向き合うことで傷ついている」女性たちなんだけど、死んでいくアンにとってはそれさえも羨ましいし、彼女たちにもっと幸福になってもらいたい。だからアンの行動には彼女たちに対する「メッセージ」がこめらているのさ。アンが夜中一人車の中でカセットに幼い娘あてのメッセージをひたすら吹き込むのだけど、彼女が娘に与えてやれる教育はこれしか無いのだよ。彼女のモノローグを聞いてると「娘にそこまでてんこ盛りで話しても理解できんの?」てな部分も多々あるのだけど、もうこれは母としての「賭け」でもあるのかいなって感じました。これを一人よがりと言われようがしょうがないじゃん、もうすぐ死ぬし。

もっと濃い「恋愛」がしたいの

 ここが最も「残されるパートナー」にとって腹が立つトコだよね~♡、ちなみに男性ならアンの夫ドン(スコット・スピーマン)と愛人リーのどっちの立場に立つのがより厭なのかな? 少なくとも夫ドンはリーに遭遇して事実を知らされない限り「彼女の最後の恋」を知ることはないわけだしね。アンの死後、どういう人生を送るかによっても違う。てことは「踏んだり蹴ったりなメに逢う」のはリーのみなのかい? 映画のラストでアンの手紙を読むリーの反応はきれいごとで嘘っぽいのかな? でもこれだってアンの遺族たちがどんな人生を送るのか「観察すること」でリーの考え方も変わるだろうしね。ひとつ言えるのはアンと夫と間で「濃い恋愛」が不可能なのは夫の所為でもアンの所為でもない、二人で「もっと濃厚な」恋愛する時間はもう無いんだよ、生活があるから。そして妻はもうすぐ死ぬ。なんで夫はアンの死後、長生きして死んだ妻とは別の女性と「濃い恋愛」をする権利があるし何より彼の人生にとって必要になってくるんだ。で、このことを伝えてくれるのはちなみにリーしかいない。

 まあ確かにアンの行動一連はひたすら「遺された人々の善意をアテにした」ムシの良い願いに貫かれている。でもつい最近のTVドラマ「妻を貰ってください」の内村サンがしつこく模索する「千の風になっても俺の息子の将来だけは守るぜぃ!」という密かだけど熱苦しい野望よりも迷惑なのかなあ~、男女で意見が分かれるでありましょうがねぇ。

もうすぐ死んじゃう女 ① 「愛と死を見つめて」 の吉永小百合

 

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 一番嫌いなタイプの映画シリーズなりそう(-_-;)

 で、でもこの手の映画は数が多くていっぱいあるからなぁ・・・と思い切って3本ほど観てみました。結論として思ったほど喰わず嫌いするほどじゃなかったのかもしれないけど、やっぱり苦手だわ。まあ一発目に取り上げたこの作品は思いのほか予想を裏切りました。だいたいさ、あんまり泣けないの・・・なにせかなり「恐ろしい映画」だから。宇野常寛さんていう若手評論家が依然「自分の恋人が死ぬという物語さえ自己実現の道具にしてしまう・・・」というのが「恋人が余命わずかの純愛ストーリー」のブームなんじゃん、てなこと言っとった記憶があるのですが、この映画製作時の1960年代当時の日本人にとっての死生観、病気に対する恐怖観というのはそんな生易しいものではないことが観ると分かります、なんたって主演の浜田光夫さんにとってはほぼトラウマになっちゃったような作品だったみたいだもん。監督の斉藤光正といえばこの他に有名なのが角川映画戦国自衛隊 ブルーレイ [Blu-ray]とかTVドラマの俺たちの旅 Vol.1 [Blu-ray]シリーズの演出だし、「戦国自衛隊」やる時も「戦国時代劇だけど、青春映画として撮りたい」というコンセプトで作ったらしいです。なので「愛と死を見つめて」は本当にガチ直球の青春映画になるはずだったのですが、頑張って青春しているのにひたすら敗北する恋人たちの姿を延々見せられるという映画ということに結果なってしまいました。もうラストシーンなんか製作者側を含めた「悲鳴に近い」思いが伝わってくるのよ、怖・・・。

あまりにも過酷な「余命宣告」を受けるヒロイン

 主人公高野誠(浜田光夫)が浪人時代大阪の病院に入院することになっていしまい、そこで出会ったのが高校生の小島道子(吉永小百合)。道子に惚れちゃったっ誠クンは退院しても彼女を励まし続け、一旦は病状が改善し道子が大学に進学すると東京と大阪の間を文通による遠距離交際をスタートさせるのでした。それでも道子は大学入学一学期も経たないうちに病気が再発してしまいます。道子の主治医のK先生によると「君が罹っている軟骨肉腫という病気は今の所放射線治療しか治療法が無く、それで治癒しない場合は肉腫そのものを切り取るしかない」とか、肉腫の範囲は顔の鼻から眼の奥まで渡っているのでほぼ顔半分はえぐり取るんだって・・・ひょえー!!また大変というか、道子さん過酷といおうか主治医の説明を自分の父親と恋人が同席している状況で聞かなきゃいけなくてその過程で自分の運命を決めているってことですよね。とにかく「ヒトの生死」は「当事者一個人の問題」には絶対できないのが当たり前のようになっている。安楽死」や「死ぬ権利」等が真剣に討論されている他の先進国の人間がこのシーン観たら非常に違和感を覚えるんじゃないかとも感じるんですが。

今時の「最後の最後まで人生を楽しんで生き抜く闘病の若者感動ストーリー」

 ・・・に慣れている若い方が観たらショックで眠れなくなるような展開が余命告知後はさらに本格的に続きます。K先生は道子をそれまでの個室からおばあさん達(北林谷栄ミヤコ蝶々笠置シヅ子)のいる大部屋に移すのですが、そこって要は「道子と同様にもう余命がわずかしかないのに告知を受けていない女性患者たち」が集められている部屋なんですね。でも彼女たちは皆呑気そう。はっきり言ってこの時代の女性は子供や孫がすでに存在していて十分幸福な人生を全うしたんでしょ、あまり自分の死期なんて気にせずに成仏するのが一番本人の為っていうのが当時の日本では常識とされていたからです。ガンの知識が豊富な現代人にとっちゃヒドイ話ですが、治療法があまり確立されてなくてガンは年寄りが罹るものって決めつけられていたしね。K先生はむしろ道子に己の死期について解からせたい為なのに「ご家族の懐事情を考えて」なんて説得する。そもそも放射腺科の医師だから診る患者は治る見込みが少ない人間が多いんで、こうなっちゃうのかねぇ、彼は道子に嘘はつくことは決してしないんですが、かといって素人が即座に自分の置かれている状況を理解できるように説明することは無いのだ。で、顔の手術後に再発すると一切映画から出てこなくなるし、なんか冷酷かも。だけどそんな経緯を経てやっと道子と誠は「もうすぐ死んじゃうんだ」という事実に向き合う覚悟ができるのだからね、それもなんだかなぁ・・・

とにかく最後の最後まで「苦しみ抜いてやっと死なせてもらえる」

 そして顔の半分を切り取られ、段々と増してくる痛みに耐えながら病院で一人過ごす道子さんを打ちのめすようなエピソードばかりになります。ここまで死病に罹った人間をいじめるかってくらい。そりゃきれいごとばかりじゃ無いにしろ、病院というところには「天涯孤独で病に罹る」「死の淵に怯える」「患者の死後取り残される恐怖に怯える遺族」で溢れちゃっている。病院の看護婦さんたちも皆終始冷静というか、重篤な患者に対してあまり感情的に寄り添うような態度は見せない。映画は最初二人の出会いや病気に打ち勝とうとする中盤まではぎりぎり青春映画なんだけど、終盤はもう告発調なの。おそらく手記を発表した河野氏には当時の医療に対する憤りや反発もあって出版した意図もあったんではと思わせます。でも出版後の反響があまりに凄すぎて却って著者自身がつるし上げられるということになったらしい。ちょっと前にTVで「愛と死を見つめて」を何故かリメイクすることになって、映画「戦国自衛隊」でも書いていた鎌田敏夫センセー脚本だったんだけど、他局の「スペシャルドラマ」に視聴率で惨敗したんですよね(どっちも観てないくせにエラそうに書くのは失礼なのは承知してますが^_^;)ただニホン人の娯楽に置けるネガティブ支持パワーって凄いもんだなって、改めてうんざりしちゃうエピソードだったなと思ったんで、つい・・・

病は気から、の恐ろしさ・・・としか思えない

 映画の冒頭、二人一緒に入院していたシーンでは道子が誠に自分の両親について話すところがあります。誠「道子さんは将来何になりたいんだい?」道子「お父さんはね、私に宝塚に入れって言うの。でもお母さんは医者になれって、手に職つけろって」で道子自身は決めかねている。この会話からはいかにも両親に大事に育てられた御嬢さんという印象しか抱かないヒトが大半でしょうが、昨今十代から二十歳前後の若い女性たちの間でやたらと「数万人に一人しか罹らない難病」のお話やら告白がネットを含めたメディアで大量発生しているのを目にするにつけ、私などは現代の若い女の子に対する社会からのプレッシャーがあまりに強過ぎてそこから逃れるにはもはや自分の身体を張って病気にでもならないと自由な生き方が獲得できないからじゃないのか?とつい疑ってしまいたくなります。実際難病の診断を受けて適切な治療を継続している彼女たちは吹っ切れたように明るくなっているような気がするよ。若いオトコだって社会からのプレッシャーは強いはずなのですが、女性の方が己の攻撃性を外ではなく自分に向ける傾向があるからなのか、それとも女性のほうが短期間のうちに社会人⇒結婚⇒子育て⇒子育て後の計画・・・と追い立てられるように決断しなければならないことに閉塞感をつのらせるからなのかは判りませんが、道子さんのような女性は今時の若い難病女性たち(そしてその手の女性は大半が高学歴だったり知性が高そう)のはしりだったのかもしれません。

 だから「愛と死を見つめて」=「純愛のお話」とするとストップがかかるのかも。