物凄い数のブログ数・・・(驚)
私以外の方がすでにブログで言及されている数としては今回が最多でしょう。もっともさっき確認したところ、以前にやった百万円と苦虫女 [DVD]の方は400件近くに達しているけどね。とにかく自分もこの映画について何か言いたいわっ、などと各々コメントが盛り上がる作品には共通点があって大抵は「女性が主人公で製作側も女性」というケースですね。男性の中にはアルモドル監督は好きだったのにがっかりした・・と早とちりされている方もいらっしゃったようですが、スペイン映画の巨匠アルモドル御大は製作総指揮で監督はイザベル・コイシェという女流監督さん。菊池凜子が何故か築地で働く女殺し屋を演じた映画(ちなみに押尾学最後の出演作として話題になった?)をこの後手がけてます。割とミーハー好みなのか(笑)ヒロインのスタイリッシュな母親役がブロンディのヴォーカルのデボラ・ハリーだったり、同僚の中年女性役がアマンダ・プラマーとどことなく豪華なキャスティング。後、特筆するべきなのが余命二ヶ月のヒロインと不倫の恋に落ちる男性がマーク・ラファロ。彼はアベンジャーズ最新作で超人ハルク演ったり、フォックスキャッチャー Blu-rayでの金メダリスト役でオスカー候補になる等、今ハリウッドでも「実は美女にモテる男」ポジションを獲得しています。私自身にとってはそんな陰鬱な映画ではなかったですがね、だって登場する食べ物が皆素朴で美味しそうなんだもん♡・・・て理由だけど。
家族には内緒にするのよっ
23歳にして二人の娘がいるアン・マトランド(サラ・ポーリー)はある日病院の健康診断の結果で呼び出されるや、医師トンプソン(ジュリアン・リッチングス)にいきなり自分が末期がんに侵されていて延命治療を受けなさいと告げられる、余命は二か月。アンは痛み止めの薬と点滴以外の治療は拒否し、トンプソンには家族にも夫にも自分の病気を知らせないでほしいと頼むのでした。アンは17歳でできちゃった結婚をし、夫は失業中で母の住む実家の庭先を間借りしたトレーラー・ハウスで生活してます、もう毎日が6歳と4歳の娘の世話、自分の仕事、夫の世話や家事、実母との淡々としてるけどシンドイ確執を抱えながらの日々が何年も続いていたのでした。そりゃあ自分の余命のことなんざ家族に明かしたくはないわさ、だってただでさえ綱渡りの日々の生活が更に大変になっちゃうもの。余命宣告はおよそ自分だけに伝えてほしいものだよねぇ、ある意味ヒロインはラッキーという感想を持った方(特に所帯もちは)多いことでしょう。そうしてこの「自分だけの秘密」を手に入れたアンは残りの人生を精一杯楽しもうと計画を始めるのでした。終活なんて言い方はつまんない、せめて「死ぬ前にしたいこと」を考えたいよね。
ジンジャー味のキャンディーって・・・ちょっと食べてみたい
告知の際にトンプソン医師がアンにキャンディーをくれる。「少し落ち着くよ」ってね、それで必ず最低月一回は通院するようにと説得する。この時のキャンディーがアン曰く「ジンジャー味ね」てことらしいんですが見た目は黄色で、アタシは思わず「ジンジャーレモン味とかなのか?」とうがって考えちゃいました。アンはこのジンジャーキャンディーが気に入って通院の時はしばしば医師からもらうしね。そんでこの後もアンの母親が仕事で作っているちょっと崩れたマフィンやら、アンの家の夕食にでてくるブタのスペアリブの煮込みやらがとても美味しそうなの。女流の映画監督が男性より唯一、演出で得意な分野があるとすればそれはだいたいお食事の描写であることが多いのさ。しかもこの映画では「美味しそうな食事風景」=「ささやかで幸せ」の表現と直結していて、アンの食事で一番まずそうなモンが登場するのは、彼女がダイナーで一人「死ぬ前にしたい10のこと」リストを作ろうと試みる時に頼む売れ残りのケーキなのだ。ダイナーでアンが「誰か一人の男を虜にしてみたい」等とボーっと考えていると、ホントに彼女を見初めて夢中になっちゃう近所の男リー(マーク・ラファロ)が登場。ダイナーで頼んだマズイコーヒー&ケーキでの欠落を埋めるように、その後コインランドリーでアンに再会したリーはコーヒーをアンにおごってあげる。食い物に釣られて恋が始まるていうことに対してリアリティが持てない人間にはまったく不自然でしかない、唐突な恋の落ち方だけど「きっとアンがもらうキャンディーは本当に美味いに違いない」から映画のノリにハマった者はほっこりしてその後はラストシーンまで気持ちよく泣けるはずさ。
「10のこと」はすべて残された愛する人々に対する「10の贈り物リスト」なのさ
23歳の若さで死のうとしているアンにとって何よりの後悔は「人生において自分自身の時間はついに訪れることはなかった」ということなのね。そりゃあ17歳で妊娠、結婚した夫とは初恋だったかもしれないし、彼にとっては今でもアンとの出会いは「ロマンチックなまんま」かもしれないけどそれは同時に十代で二人の時間は止まっているということでもあるわけ。で、結局二人に何が起きたんだか理解できないままひたすら生活に追われている。アンの周囲の女性たち、辛い人生を「ひたすら仕事でもプライベートでもケーキを焼く」ことで慰めているアンの母や失恋の痛手を克服する為にダイエットに血道を上げるアンの同僚ローリーやアンの家の隣人として登場するアンと同じ名前の看護師(レオノール・ワトリング)にしろ、皆「自分の人生と向き合うことで傷ついている」女性たちなんだけど、死んでいくアンにとってはそれさえも羨ましいし、彼女たちにもっと幸福になってもらいたい。だからアンの行動には彼女たちに対する「メッセージ」がこめらているのさ。アンが夜中一人車の中でカセットに幼い娘あてのメッセージをひたすら吹き込むのだけど、彼女が娘に与えてやれる教育はこれしか無いのだよ。彼女のモノローグを聞いてると「娘にそこまでてんこ盛りで話しても理解できんの?」てな部分も多々あるのだけど、もうこれは母としての「賭け」でもあるのかいなって感じました。これを一人よがりと言われようがしょうがないじゃん、もうすぐ死ぬし。
もっと濃い「恋愛」がしたいの
ここが最も「残されるパートナー」にとって腹が立つトコだよね~♡、ちなみに男性ならアンの夫ドン(スコット・スピーマン)と愛人リーのどっちの立場に立つのがより厭なのかな? 少なくとも夫ドンはリーに遭遇して事実を知らされない限り「彼女の最後の恋」を知ることはないわけだしね。アンの死後、どういう人生を送るかによっても違う。てことは「踏んだり蹴ったりなメに逢う」のはリーのみなのかい? 映画のラストでアンの手紙を読むリーの反応はきれいごとで嘘っぽいのかな? でもこれだってアンの遺族たちがどんな人生を送るのか「観察すること」でリーの考え方も変わるだろうしね。ひとつ言えるのはアンと夫と間で「濃い恋愛」が不可能なのは夫の所為でもアンの所為でもない、二人で「もっと濃厚な」恋愛する時間はもう無いんだよ、生活があるから。そして妻はもうすぐ死ぬ。なんで夫はアンの死後、長生きして死んだ妻とは別の女性と「濃い恋愛」をする権利があるし何より彼の人生にとって必要になってくるんだ。で、このことを伝えてくれるのはちなみにリーしかいない。
まあ確かにアンの行動一連はひたすら「遺された人々の善意をアテにした」ムシの良い願いに貫かれている。でもつい最近のTVドラマ「妻を貰ってください」の内村サンがしつこく模索する「千の風になっても俺の息子の将来だけは守るぜぃ!」という密かだけど熱苦しい野望よりも迷惑なのかなあ~、男女で意見が分かれるでありましょうがねぇ。