もうすぐ死んじゃう女 ① 「愛と死を見つめて」 の吉永小百合

 

愛と死をみつめて [DVD]

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 一番嫌いなタイプの映画シリーズなりそう(-_-;)

 で、でもこの手の映画は数が多くていっぱいあるからなぁ・・・と思い切って3本ほど観てみました。結論として思ったほど喰わず嫌いするほどじゃなかったのかもしれないけど、やっぱり苦手だわ。まあ一発目に取り上げたこの作品は思いのほか予想を裏切りました。だいたいさ、あんまり泣けないの・・・なにせかなり「恐ろしい映画」だから。宇野常寛さんていう若手評論家が依然「自分の恋人が死ぬという物語さえ自己実現の道具にしてしまう・・・」というのが「恋人が余命わずかの純愛ストーリー」のブームなんじゃん、てなこと言っとった記憶があるのですが、この映画製作時の1960年代当時の日本人にとっての死生観、病気に対する恐怖観というのはそんな生易しいものではないことが観ると分かります、なんたって主演の浜田光夫さんにとってはほぼトラウマになっちゃったような作品だったみたいだもん。監督の斉藤光正といえばこの他に有名なのが角川映画戦国自衛隊 ブルーレイ [Blu-ray]とかTVドラマの俺たちの旅 Vol.1 [Blu-ray]シリーズの演出だし、「戦国自衛隊」やる時も「戦国時代劇だけど、青春映画として撮りたい」というコンセプトで作ったらしいです。なので「愛と死を見つめて」は本当にガチ直球の青春映画になるはずだったのですが、頑張って青春しているのにひたすら敗北する恋人たちの姿を延々見せられるという映画ということに結果なってしまいました。もうラストシーンなんか製作者側を含めた「悲鳴に近い」思いが伝わってくるのよ、怖・・・。

あまりにも過酷な「余命宣告」を受けるヒロイン

 主人公高野誠(浜田光夫)が浪人時代大阪の病院に入院することになっていしまい、そこで出会ったのが高校生の小島道子(吉永小百合)。道子に惚れちゃったっ誠クンは退院しても彼女を励まし続け、一旦は病状が改善し道子が大学に進学すると東京と大阪の間を文通による遠距離交際をスタートさせるのでした。それでも道子は大学入学一学期も経たないうちに病気が再発してしまいます。道子の主治医のK先生によると「君が罹っている軟骨肉腫という病気は今の所放射線治療しか治療法が無く、それで治癒しない場合は肉腫そのものを切り取るしかない」とか、肉腫の範囲は顔の鼻から眼の奥まで渡っているのでほぼ顔半分はえぐり取るんだって・・・ひょえー!!また大変というか、道子さん過酷といおうか主治医の説明を自分の父親と恋人が同席している状況で聞かなきゃいけなくてその過程で自分の運命を決めているってことですよね。とにかく「ヒトの生死」は「当事者一個人の問題」には絶対できないのが当たり前のようになっている。安楽死」や「死ぬ権利」等が真剣に討論されている他の先進国の人間がこのシーン観たら非常に違和感を覚えるんじゃないかとも感じるんですが。

今時の「最後の最後まで人生を楽しんで生き抜く闘病の若者感動ストーリー」

 ・・・に慣れている若い方が観たらショックで眠れなくなるような展開が余命告知後はさらに本格的に続きます。K先生は道子をそれまでの個室からおばあさん達(北林谷栄ミヤコ蝶々笠置シヅ子)のいる大部屋に移すのですが、そこって要は「道子と同様にもう余命がわずかしかないのに告知を受けていない女性患者たち」が集められている部屋なんですね。でも彼女たちは皆呑気そう。はっきり言ってこの時代の女性は子供や孫がすでに存在していて十分幸福な人生を全うしたんでしょ、あまり自分の死期なんて気にせずに成仏するのが一番本人の為っていうのが当時の日本では常識とされていたからです。ガンの知識が豊富な現代人にとっちゃヒドイ話ですが、治療法があまり確立されてなくてガンは年寄りが罹るものって決めつけられていたしね。K先生はむしろ道子に己の死期について解からせたい為なのに「ご家族の懐事情を考えて」なんて説得する。そもそも放射腺科の医師だから診る患者は治る見込みが少ない人間が多いんで、こうなっちゃうのかねぇ、彼は道子に嘘はつくことは決してしないんですが、かといって素人が即座に自分の置かれている状況を理解できるように説明することは無いのだ。で、顔の手術後に再発すると一切映画から出てこなくなるし、なんか冷酷かも。だけどそんな経緯を経てやっと道子と誠は「もうすぐ死んじゃうんだ」という事実に向き合う覚悟ができるのだからね、それもなんだかなぁ・・・

とにかく最後の最後まで「苦しみ抜いてやっと死なせてもらえる」

 そして顔の半分を切り取られ、段々と増してくる痛みに耐えながら病院で一人過ごす道子さんを打ちのめすようなエピソードばかりになります。ここまで死病に罹った人間をいじめるかってくらい。そりゃきれいごとばかりじゃ無いにしろ、病院というところには「天涯孤独で病に罹る」「死の淵に怯える」「患者の死後取り残される恐怖に怯える遺族」で溢れちゃっている。病院の看護婦さんたちも皆終始冷静というか、重篤な患者に対してあまり感情的に寄り添うような態度は見せない。映画は最初二人の出会いや病気に打ち勝とうとする中盤まではぎりぎり青春映画なんだけど、終盤はもう告発調なの。おそらく手記を発表した河野氏には当時の医療に対する憤りや反発もあって出版した意図もあったんではと思わせます。でも出版後の反響があまりに凄すぎて却って著者自身がつるし上げられるということになったらしい。ちょっと前にTVで「愛と死を見つめて」を何故かリメイクすることになって、映画「戦国自衛隊」でも書いていた鎌田敏夫センセー脚本だったんだけど、他局の「スペシャルドラマ」に視聴率で惨敗したんですよね(どっちも観てないくせにエラそうに書くのは失礼なのは承知してますが^_^;)ただニホン人の娯楽に置けるネガティブ支持パワーって凄いもんだなって、改めてうんざりしちゃうエピソードだったなと思ったんで、つい・・・

病は気から、の恐ろしさ・・・としか思えない

 映画の冒頭、二人一緒に入院していたシーンでは道子が誠に自分の両親について話すところがあります。誠「道子さんは将来何になりたいんだい?」道子「お父さんはね、私に宝塚に入れって言うの。でもお母さんは医者になれって、手に職つけろって」で道子自身は決めかねている。この会話からはいかにも両親に大事に育てられた御嬢さんという印象しか抱かないヒトが大半でしょうが、昨今十代から二十歳前後の若い女性たちの間でやたらと「数万人に一人しか罹らない難病」のお話やら告白がネットを含めたメディアで大量発生しているのを目にするにつけ、私などは現代の若い女の子に対する社会からのプレッシャーがあまりに強過ぎてそこから逃れるにはもはや自分の身体を張って病気にでもならないと自由な生き方が獲得できないからじゃないのか?とつい疑ってしまいたくなります。実際難病の診断を受けて適切な治療を継続している彼女たちは吹っ切れたように明るくなっているような気がするよ。若いオトコだって社会からのプレッシャーは強いはずなのですが、女性の方が己の攻撃性を外ではなく自分に向ける傾向があるからなのか、それとも女性のほうが短期間のうちに社会人⇒結婚⇒子育て⇒子育て後の計画・・・と追い立てられるように決断しなければならないことに閉塞感をつのらせるからなのかは判りませんが、道子さんのような女性は今時の若い難病女性たち(そしてその手の女性は大半が高学歴だったり知性が高そう)のはしりだったのかもしれません。

 だから「愛と死を見つめて」=「純愛のお話」とするとストップがかかるのかも。