フォークロア(民俗学)の女 ③ 「シン・ゴジラ」の余貴美子

 

シン・ゴジラ Blu-ray特別版3枚組
 

 コアなファン以外には「おふざけが過ぎた」紅白版ゴジラコント

 でもでも「良質な音楽」と称して、ピコ太郎に聖歌隊をしょわせたり、XーJAPANのTOSHIサマの歌声をマーズ・アタック! [Blu-ray]ヨーデルと同列に扱った悪辣なヲタクネタには少しだけ嬉しかったよ。(笑)・・・まあそれだけ2016年度の「現象」にまでなったゴジラ最新作です。先日YOU TUBEで米国公版の予告篇を拝見しまして「そんなに有名なのかエヴァンゲリオン庵野秀明って」と改めて驚いたんですが、予告編自体は樋口真嗣特撮監督以下の特撮班チームが各自頑張って撮影した映像の良いところを繋いだという印象が強く、映画の出来は共同作業の勝利って気がしなくもないですけどね。ただ庵野監督の特撮のコダワリは他のスタッフと比べてもやっぱり突出して異常な処があるとは強く思います。庵野さんて要するに「ウルトラマン」のTVシリーズでもよくやった「バルタン星人やゼットンが物理的法則や重量を無視してボワッと浮いている」みたいなのに熱狂してたんだろうな・・・てド素人が観ていてもすぐに気が付くぐらいですからね。私エヴァTVシリーズも大昔に1話から3話を再放送で観た記憶しかなく、こんなシュールな映像センスで平面的なアニメ表現が保つかよ「異常」・・・というストーリー展開を含め嫌悪感しか抱かなかったもんです。それが大ヒットして現在に至っておりましたし、今回のシン・ゴジラにも庵野印の異常性は生かされてはおります。実は私心配しながら観に行ったクチなので、思ったよりはずっと「大人の映画」でしたよお。(笑)

シン・ゴジラ」には「人間的な愛」の表現や言及が無いという人へ

 まずキミは冒頭に登場する謎の個人船舶と「自殺の意思を表現するために置かれた男性用革靴」のシーンを覚えているかい?とにかくこの映画ハナっから「狂気の愛しか存在していないってことだからねっ♡。塚本晋也博士がぶつぶつ言いながら解き明かす謎を提示する牧吾郎(岡本喜八)は異端の科学者ゆえに米国で活動していて妻は放射能被爆で亡くした恨みを晴らすために、海洋に廃棄された放射性廃棄物を捕食して進化した海洋生物「ゴジラ」出現の予知とその解決策の開発に生涯をささげていた?・・・この辺の設定がもう独りよがりの妄想が現実化したと受け取る方もおられましょうが(笑ゴジラ(昭和29年度作品) 東宝DVD名作セレクションの芹沢博士(平田昭彦)のケースと比べても「リア充」度が高いだけまだましかも。初代ゴジラにおける芹沢博士のはかなくてなんだか異常な愛の記憶が蘇る特撮映画ファンにとっては冒頭部のヨットのシーンと今回の主人公矢口(長谷川博巳)を中心としたチーム活躍の過程で「愛お腹一杯」です。カヨコ(石原さとみ)と矢口との丁々発止やり取りもやっぱり恋愛なしで十分だし、だいたい温いカップルやってる暇はこの映画には無かったよ。

シン・ゴジラ」には「人間の死」が描かれていないという人へ

 じゃあゴジラ破壊後のがれきの中に人の死が混じっているシーンなんか観たかったのかい? 出動した自衛隊が民間人を避けようとしてゴジラ襲撃のチャンスを逸したとかがいかにもご都合的できれいごとっぽいとでも感じたのかな。でも今の日本人にとっての身近でリアルな「死」の表現を模索したら果たしてどんな手が良いんだろうね?ついこの間も日本は大規模地震や台風なんかがあったばかりで災害でいきなり家族を失う人も出現したけど、そういう人々でも実際はどんな時に「ついさっきまで自分と一緒にいた人間が死んだ」を実感するんだろう。初代ゴジラにしたって一番印象に残るのはゴジラ襲撃で街の大通りに幼な子を抱えて座り込んじゃった母親の「これでお父様のところへ行けるわ」と繰り返し叫んでいたのが一番観客が身近に感じた「死」の象徴的なシーンだったからさ。初代ゴジラの21世紀版を作るにあたっても引き継がないといけないのは人間の死というものを決して「死体」で表現しないという方向性でシンゴジラはかなりオーソドックスにやってるんだよ、あれでも。そうシンゴジラでは一般市民の犠牲者で「死」を表現するわけにはいかないということで、選択したのは現閣僚一人残し「内閣の大臣総死亡」というアイディアだったのさ。死体ではなく「存在の欠落」としての死を描くなら、映画の前半日常性や緊張感の無さや「無能」さの象徴としてひたすらボソボソダラダラと描かれる大河内総理(大杉連)をはじめとする閣僚会議とゴジラ上陸が並行して描かれ、両者がシンクロするのか?と思ってる間に映画から存在自体が無くなってしまう・・・だよ。ゴジラが日本の中心地を口から放射能吹いて全部消しちゃうの。あの時のシーンは鷲巣詩郎の音楽が被るとさすがになんだか哀しかったです。矢口が思わず「あれがゴジラ・・」と呟くくらいに何故か魅入られてしまう。でもそのおかげで自分たちが当たり前のように思ってた世界が一変するのさ。立川にたどり着いた矢口はボロボロで周りに「すぐ着替えなさい」と促されても自分の上司の東副長官(柄本明)が死んじゃった事実をどっかで受け入れられない。そんな時に矢口に声かけるのが与党の有力な若手政治家の泉(松尾諭)で「とにかく君が落ち着け」て例の有名がシーンになりますが、ゴジラがやって来たっつうのにもろ今時オーダーの三つ揃いスーツに頭テッカテカで「世襲で順調に出世してます」て名札が張り付いた若年寄のオッサンに言われたくないんだよおお!!な感情を観客に引き起こすのが良かったです。この後出てきて世界的にもウケた里見農水大臣&総理代行(平泉成)の「らーめん伸びっちゃったよ」もそうなんですが、どうせ緊張感だけではないリアル感を出そうとしてもなんか表現が温くなっちゃうのは仕方ないのならば、ヘンに感動的だったりポジティブな共感を誘おうとするよりも、いろいろダサくて突っ込みどころ有りすぎニッポンを強調する方がベターなのではないでしょうか。世の中には皆が協力したり考え方を少し修正すればばなんとかなる惨事に対しても「道険し」を象徴するには政治家達のサマが一番適当と判断した演出はもっと評価されても良いと思います。

それにしても防衛大臣の「アイライン」

 とはいえ「結局のところ今度のシン・ゴジラって昔のヤマタノオロチを退治するために、勅命を受けたナントカの尊が活躍したしたみたいな話になっていると思えばいいよお~」と私が言うと「その通りだと思うが、そんな話になっているからこそ下らない映画になっているのだっ」ていう指摘をする方もおられます。まあその辺が一番賛否分かれるところなのでしょう。日本の官僚や政治家があんな優秀なはずないじゃんか、ヒロイックに描き過ぎ(ハリウッド映画と比べてもか?)・・・な感想もでてくるわけですね。しかし今回東宝は元々GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組のヒットを受けてゴジラ最新作製作を決定した経緯もあるので「ディザスター映画としてのゴジラ」を企画段階から問うという作業をしていく流れになったとも私なんかは推察します。その為以前のゴジラ映画のように一般人に主人公を託すことは諦めて日米の「国家としての危機管理」の違いを浮き彫りする展開にはなりますがあくまでも国家存亡の危機をもたらす危険を取り除く方法とスタンスの違いを描くために矢口とカヨコは対峙しているだけでありました。そして前半の大河内総理と花森防衛大臣余貴美子)の緊迫したやり取りは「日本という国の成り立ちが自然でなんとなく出来上がった」ために誰がどの程度責任を取ればコトが収まるのか?という方向にしか議論が行かない悲喜劇のようでしたあ。花森「総理がご命令してくれば我々は攻撃を開始します」(段取りはできているから号令かけてよ)大河内「しかしぃ」(いいのかなあ、もし取り返しのつかないことになったら)花森「いいですか!撃ちますよ!」(だから失敗したら皆で責任取るんでアンタだけの所為じゃないでしょ、アンタが号令かけないとシタの人間が迷惑すんのよ早くして!)と詰め寄る花森大臣の顔はカッサカサで、いつになく上下びっしり描いたアイラインが困惑と疲労を映し出します、かなり怖いっす。なんで個人的にシン・ゴジラのヒロインと言えば石原さとみでも市川実日子でもなく断然余貴美子サマということになっちゃいますね。

 んで矢口は思わずカヨコに「じゃあ米国の想定外の危機管理というのはどんな風にやるんだよ」とふっかけたりするんですが彼女はそれに対して「大統領が決断するもの」の一言で済ませます。表現を変えると米国はマニュアルで作った国なので崩壊するとしたらマニュアルが間違っていた、あとは知らねえよってことなのでしょう。これも八月の公開時には稚拙で素朴過ぎる議論だなあ・・・笑って済ませていられましたが、今現在に至っては意外と洒落にならない台詞となってしまったのかもしれません。