お祓いされる女 8 「アリー/スター誕生のレディ・ガガ」

 

 どうしてあの「ガガ様」が演らなきゃいけないのぉ~

 高校が女子校で中高合わせて千人は入る講堂が自慢だった。そこで演劇や映画を見せるとかなりのスケール、大画面になる。高2の時に(午後の授業をつぶして)映画鑑賞会があってB・ストライサンド主演のスター誕生 [Blu-ray]を観た。高3になると卒業間近という事か3学年だけで映画上映会をデカい講堂ではなく体育館で上映することになって事前に何本か映画(総てハリウッド映画)の候補があり、中にはローマの休日(日本語吹替)なんかも入っていたんだが、投票で選ばれたのはディズニー映画(と思われるんだ)の小さい男の子が飛行機事故から一人生還する冒険映画だった・・・おそらく教師のほうは「ローマの休日」が一番得票を稼いで欲しかったのかもしれないが、昔も今も大人の思うほど女子高生は恋愛映画に興味が無いんである。演ってる人間が日本人でない分、ストーリーが直に訴えかけてくるので「この話キライ、意味わかんない」がハッキリでてしまうのだ。んで「ローマの休日」にしろ「スター誕生」にしろこの手の女性が主人公の愛についての映画てやつは「ベタ」なんである。映画の結末がネタバレしても全く問題ないくらいにありきたりで、そこまでたどり着くまでのプロセスこそ見せたい映画。またそんなベタな映画って同時に説教くさいメッセージを感じ取るお年頃には面白くない映画、なのだ。今現在(2019年10月時点)で話題の「JOKER」だって「今更なんでタクシードライバー (字幕版)の焼き直しみたいなのをDCコミックのヒーローを借りて映画にしなきゃなんないの?」なベタ映画である。・・・というわけで私がレディガガを主演にして「スター誕生」をリメイクするって聴いたときの反応はどうしてあのガガ様が古色蒼然としたメロドラマのヒロイン演らなきゃいけないのであって、おそらく日本の配給会社のスタッフも困ってんだろうなあぁ・・・だった。だからこの映画の宣伝の人達は細心の注意を払ってよくロングランにこぎ着けたと思う(一部の映画ファンからクレームがついてもアリーって役名のタイトル加えたし、年末に観たTVのスポットCMだと実際のレディ・ガガが被ったパワハラのエピソードでも追加されてんのか?と疑問には思ったが)前作のB・ストライサンド版よりも 題材が広く深い枠組みで出来ていてちゃんと21世紀の映画になってたという映画の底力もあったけどね。

C・イーストウッドがずっとビヨンセ主演でヤリタカッタのを・・・

 イーストウッドの弟子とも言えるB・クーパーがレディ・ガガを連れてきて自分で「スター誕生」をリメイクしたいって言ってきたのでお任せしたらしい。ビヨンセが主演で相手役のジャクソン・メイン役にはジョニー・デップへ頼みに行って断られただのとか、脚本家の一人がジャクソン・メインのイメージをカート・コバーンみたくしたいんだとか、門外漢が聴くと一層収拾がつかない感じですが、最終的にB・クーパーが主導でまとめたのかな。よくよく観るとB・ストライサンド版やJ・ガーランド版の「スター誕生」を彷彿とさせ、ブラッシュアップして見せてくれるので知識の無い人が始めてガガ版の「アリー/スター誕生」観ても楽しめると思います。まあぁ・・ホント言うと「スター誕生」ってハリウッドが好きな男のメロドラマの典型の一つなんでは有りますが。だから21世紀になっても残していきたいっていう人多かったんじゃないかと。成功を納めたはずの男が妻にした女性に「抜かれる」というワケではなく、挫折感を抱えた男が妻を得てもう一度「輝きだかったけどもう力つきていた」な悲劇・・・しかしそんな話に日本人のしかも今どきの独身男女には身につまされる要素って有りますかね。

ジャクソン・メインの成功の秘密と「限界」

 今回のJ・メインはカントリー系のロック歌手として成功を収めてUS全土をひたすらツアーして回ってる。21世紀の音楽シーンはヒット曲が続かなくてもステージでめいっぱい稼いでいるスターが当たり前なので、彼がアーティストとしてもミュージシャンとしても限界ギリギリの状態だとは皆は気がつかない。J・メインの異母兄でマネジャーのボビー(サム・エリオット)とも仲違いしていて今にも活動に支障を来しそう・・な時にステージで歌っているアリー(レディ・ガガ)と出会う。映画は今回アリーとJ・メインの家族と彼らが背負っている背景というものを丁寧に(というより中盤のエピソードはソレしかなかったりする)描くのでJ・メインがいかに才能が燃え尽きているかがよく判って辛い。J・メインの父親は貧しい季節労働者で60過ぎてから当時知り合った農家の18歳の娘との間に彼をもうけた。そんで母親の方は産後あっという間に亡くなり老いた父親と一緒に父親が死ぬまで子供時代を過ごしたような人。どうしてそんな閉塞した環境で成人した彼が成功するんだろう?っていぶかる人もでそうなんだけど、年寄りの父親は古いR&Bのレコードをたくさん持っていて、レコードを掛ける古い蓄音機だけが子供の頃のおもちゃだったJ・メインはブレる事なく自分の信じる音楽を作りヒットを飛ばす事が出来たのさ。クリエイターの引き出しが小さい事によって一点突破して出来上がった傑作てのは世の中に結構あるからね。成功し続けるのは辛いけど。でもいよいよ両耳が聞こえなくなって自分がステージに立てなくなったらせっかく作った音楽も、それこそ自分の生きた証も消えちゃうかもしれないんだ。だからJ・メインはアリーを求める。そこがハッキリ判るので、彼がいくらだらしなくともアリーに理不尽な嫉妬をしても、ひたすら切なさが漂う。あまりにも負け犬過ぎるっていうか。

主演女優にして映画における音楽プロデューサーのガガ様

 映画の主題歌がアカデミー賞の主題歌曲賞を取った時、ガが様としては他2人の作曲家との共作だったんで「ありがとう二人のおかげだわ」て受賞でコメントしてて他2人は「いや君の曲を我々は殆ど手直すとこが無かったよ」と返していた。ガガは脚本を読んで曲を作り、今までやったことの無いカントリー系の曲をさらっと作り上げたらしいよ。アリーも実際のガガ様と同様に音楽の引き出しがとても多くて、むしろ多すぎてヒットする機会を逸していたんだね。アリーはJ・メインの音楽に触れる事によって楽曲の才能が認められて、流行の音楽シーンに合わせて曲を提供することが出来る。彼女の家はせいぜい中産階級てとこだけど父親の仕事はリムジンの運転手でスターが身近にいた。彼女はJ・メインなんかよりはるかに恵まれた音楽環境で育ったんで、夫になった彼よりもはるかに安定してアーティストを続けられる。まあ21世紀はスター誕生というよりアーティスト誕生、て映画になったのかも。そして一番大事なのはアーティストが残した作品を後世にまで引き継いでいくこと。アリーとJ・メインの結婚生活は短くて2人は子供ももうけられなかったけど、敢えて言えば2人で作った作品が子供。アリーが唄い続ければ子供達は残る、数代にわたる彼らの家族の歴史も残る。そう思い至るとラストはなかなかに感動するよ。

 

  ↑はドキュメンタリーでその年のアカデミーのドキュメンタリー賞を取りました。エイミー・ワインハウスレディ・ガガは境遇が全く違っていて、しかもルックスも音楽的資質はかなり似通っていた。映画観ると10代で成功を納めたエイミーが同時期にNYで下積みしていたガガのような苦闘もせずにあらゆる種類の音楽を網羅出来るはずだったのに・・・だったのが、あっという間に転落していくのでホント諸行無常に感じます。2本合わせてみるとガガ様は出るべくして「スター誕生」に出たって気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BL版 ⑤ 「翔んで埼玉」

 

翔んで埼玉 豪華版 [Blu-ray]

翔んで埼玉 豪華版 [Blu-ray]

 

 埼玉県人には草でも食わておけ!

 一部のファンにはカルト漫画と呼ばれていた原作ですが、1982年当時の連載では未完で映画のストーリーの三分の一程度分くらいしかありません。当時いい年した大人(魔夜峰央)にとっては本質的にはどうでも良い東京コンプレックスを元にした近県同士のdisり合いが連載当時の中高生(監督の武内英樹)にはとても大問題だったらしく、30数年かけてマニアックに予算つぎ込んでゴージャスに映画化しました。またこの映画二重構造になってまして、麻美麗(ガクト)と壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の話とは別に真夏の埼玉から東京へ向かう親子三人(ブラザートム麻生久美子、島崎遙香)の話が被り映画の最後には娘(島崎遥香)と婚約者(成田凌)の結婚話に繋がるのです。とても日本的クラシックな大団円というか、非常に日本的なお目出度い当たり狂言のよう、そして江戸歌舞伎狂言のもう一つのレジェンド「佐倉惣五郎伝」のような一揆モノの側面があります。BLカップルも含めて反則技満載の歌舞伎チック映画、・・・海外配給への宣伝はコレでいけそうだよっ。

21世紀の佐倉宗五郎伝、という当たり狂言としての位置付け

 もちろん軽い冗談としての指摘ですが。ちなみに佐倉惣五郎とは江戸初期に今の千葉県に実在した名主のオジサン。彼はいわゆる「一揆騒動」を起こして江戸幕府に直訴したという史実を元にして歌舞伎でお芝居化し、江戸の終わり頃に大ヒット飛ばしました。御上に楯突く庶民の話なのにも関わらす当時あまりの観客の熱狂ぶりに幕府は佐倉惣五郎伝なる芝居を禁止にせず民衆の不満を「ガス抜き」させる効果に期待をしたのでした。この芝居私も最近1度観たのですが、主人公佐倉惣五郎のドメスティックな哀しい子別れのシーンがもっとも名場面とされていまして江戸歌舞伎の名作狂言としても屈指の地味さでございます。そして翻って「翔んで埼玉」でも白眉なのはひたすらに中盤にかけての麻美麗と壇ノ浦百美の逃避行シーンの独創性溢れるといおうか、二人の眼に映る無知で無力でいじましく慎ましやかな夢を持つ埼玉&チバ県民達の姿の描写でありました。私は終始ちっとも笑えなくてつい他の席に目を向けると劇場の観客はほぼ笑っておらす、主に家族連れの観客を横目で観察していたのでしたが、皆真剣に息つめて観てました。海岸を逃走する麗達を助けようと白馬に乗って登場する埼玉デューク(京本政樹)でやっとホッとしたくらい。頭の一方では「昭和の仮面ライダーみたいで強烈懐かしくて嬉しいけど何故今さらこんな映画で堪能しなきゃいけないんだ」な疑問が生まれておりましたが、後の展開も矢継ぎ早にいろんなアイデアがぶち込まれていくのでもうそれどころじゃないのよ。宣伝でフィーチャーされた荒川の埼玉VS千葉ヤンキー合戦とか派手ではあるけど所詮小ネタのおふざけだからね、あんなのは。

東映らしさ?・・・もあったっけか?

 何というか・・・多分あるんだと思う(よく分からないけど)。この映画で「奇蹟の還暦/60歳」な京本政樹は芸能界でも有名な仮面ライダーの熱狂的なファンで昭和の東映時代劇スターの一人大川橋蔵の弟子だった事を考えると個人的に感慨がひとしおだったです。京本政樹に限らず阿久津翔(伊勢谷友介)やガクトばかりがイケメンライトアップされて件の決めぜりふ「埼玉県人には草でもくわしておけ!」と叫ぶ二階堂ふみのアップの方は往年の東映特撮の女帝曽我町子を彷彿とさせるようにどす黒く・・・・そんな予告編を劇場で観て驚き一体ナニがやりたいんだこの映画?という興味だけで密かに公開を楽しみにしてました。そういえば東映といえば私にとっては「仁義なき」シリーズよりウチの父親が大好きだった大川橋蔵の代表作新吾十番勝負 第一部・第二部 総集版 [DVD]のシリーズの方が印象強くて、「翔んで埼玉」との共通点を感じてしまいましたね。「新吾十番勝負」って今観ると主人公でホントは御落胤の葵新吾が白塗りキンキラキン衣装のまんま剣豪を目指すけど、内心では「お姫様とエッチな事したい煩悩」に苦しむって話が延々と続く、それでも明朗青春時代劇シリーズって感じで諸国を回って修行するんですけど、「翔んで埼玉」の二人も葵新吾のように東京以外の地域を放浪して今までは知らなかった庶民の生活を知るようになるのです。私昔観た「新吾十番勝負」の中でも「お前は〇〇の匂いがする」だの「オンナの匂いに惹かれて〇〇しに来たな」だのやたら匂い関係で言いがかりを付けられる葵新吾のエピソードが強烈な記憶に残っているんですが、麗と百美の「都内を代表するお洒落スポットの香りテイスティング勝負」は当然映画オリジナルで、「新吾十番勝負」へのリスペクトから来ている・・・と言えない事もないかなあ?まあきっと偶然なんでしょうけど。

 ちなみに予告編とは違って本編の百美さんのアップはどす黒くなくて、魔夜峰央の漫画そのままのような美少年カットもキチンと存在してますんで安心して下さい。(きっと予告編やり過ぎだって声があったんだろうと推測してます 笑)

大ヒットにして「極めて政治的な映画」になっちゃったんだよ

  何故だか理由は分からないですけどぉぉ・・・2019年のメジャーでより娯楽ちっくな日本映画のトレンドが政治なんですよね、「翔んで埼玉」の後に公開された「引っ越し大名」も「記憶にございません」も題材が政治ネタで、ボーイズラブの香りがどことなくするのが特徴。権力争いといえばホモソーシャルな集団のお話で、ヒーローたる主人公と女性の関わりよりはブロマンスというか男同士の「愛♡」が全体の骨子になっていく。「翔んだ埼玉」の場合は単なる出身地のダサさからくるコンプレックスや生まれながらの格差といった問題が青年期を経て、乗り越えて行かなきゃならないという衝動が既得権益を持っている奴らと闘いたいというパワーになる過程と結果をギャグ満載で象徴としての革命としてラストまで描いちゃう。知ってか知らずか埼玉で選挙応援していた共産党の代議士さんが映画公開直前に「埼玉マーク」をSNS上で披露してくれるというのに私出くわすわ、映画公開後には高須クリニックとコラボして一部ブーイング反応を呼ぶわ、製作側はそこまで深く考えていなかったとしても現象としてちょい危険な映画にもなってしまいました。折しも「翔んで埼玉」キャラをフィーチャーした埼玉補選の公示後、台風19号の被害で埼玉を代表する水路の街川越が大変な水害に現在(2019年10月13日)の被害に遭って居ます。とにかくいろいろ有リ過ぎな2019年の埼玉フィーバーであります。ライバル千葉も台風15号では被害に遭ったよ、一緒一緒。

GOALを目指す女 ③ 「バトルオブセクシーズ」のエマ・ストーン

 

 それにしても絶好調なエマ・ストーン、それはまるで・・・

 まるで現在ハリウッドには「エマ・ストーン映画」なるジャンルさえ有るようってくらいに皆エマ・ストーン主演の映画には共通した型(パターン)があるって事なんですね。それは彼女の成し遂げた成功が思わぬ展開を呼ぶ、てヤツ。彼女の代表作であるラ・ラ・ランド スタンダード・エディション [Blu-ray]でもラストのミュージカルシーンに暗示されていたように、エマ・ストーン演じるヒロインがやり遂げた1人芝居の成功が彼女を自身も思いもよらない場所に連れて行ってしまい、彼女自身が変貌を遂げてしまうのですよ。エマ・ストーンが演るヒロインは短期目標に対しては明確だか長期目標については曖昧なのが特徴みたい。比較的日本人に近いといおうかあ(笑)。その代わり映画のエマ・ストーンはいつでも辛抱強いし、気がつくと周囲がアッと驚くような事をやってのけるのですよ。そんな彼女には70年代ウーマンリブ運動の真っ只中に活躍したテニス女王ビリー・キングの役はぴったりなのです。監督は夫婦コンビのジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリス、映画「リトル・ミスサンシャイン」好きとホットチリペッパーズのファン、それからテニスのファンにも当然お奨めします。テニス好きにはボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 [Blu-ray]のなんてのも最近有りますが、ビリー・ジーンだけでなく対戦相手ボビー・リッグス(スティーブ・ガレル)の話でもありますので。

全米テニス協会の設立は1967年

 そんでもって協会が設立して全米の男女シングル選手権も行われたのですが、女子の選手権の賞金は男子選手の8分の1であったのでした。女子チャンピオンのMrs.ビリー・キングは仲間にも促され、協会会長のジャック・クレイマーに掛け合いますが「女子テニスの試合は男子ほど人気がないんだかから、賞金額は順当な結果だろ」といなされてしまいます。怒ったビリーは他の女子選手と共に「女子だけのテニス試合ツアー」という巡業を敢行し全米を回るようになりました。彼女たちは専属のスタイリストを雇い独自のテニスウェアなど作る等工夫を重ねて次第に女子テニスの試合のファンを増やしていきます。1970年初頭はウーマンリブ運動が活発な時で、ビリーのように結婚したり、ライバルのマーガレット・コートジェシカ・マイナミー)のように結婚、出産しても女子選手としてのピークを迎えて活躍したりと、世論の後押しもあり一気に女子テニス界はイケイケ状態になったのです。んでそんな女子テニス界の活況を見て、自分にも再度チャンスが巡ってきたかも・・・と山っ気を出す人物が現れました。それが1967年にテニスの殿堂入りを果たし、普通に行けば「レジェンド」と讃えられても良さそうなかつてのテニスチャンピオンのボビー・リッグス。

テニスコートのペテン師

 引退してNYで金持ち相手との「賭けテニス」なんてのしながらテニスの後にコートでビールを楽しむような毎日を送っていたボニー・リッグス。でも1939年にウィンブルドンでシングル、ダブルス、男女ダブルスの三冠ハットトリックをやってのけた時には彼は21歳だった。家に帰ると妻プリシラエリザベス・シュー)には離婚を切り出されるし息子には呆れられる・・・なんて描写が続くと日本人には直ぐにはピンときませんが、彼の選手生活の絶頂期って第二次世界大戦でバッサリと断ち切られているんですよね。息子は父の事をそれなりに尊敬はしてるみたいだけど、父の選手時代はおそらく知らないでしょう。日本だったら日本プロ野球界黎明期に活躍した沢村投手が無事に兵役終えて帰還してきたようなレベル。これが日本の大河ドラマなら金栗四三田畑政治ごとき主人公になるのにっ・・・まあ、あまりにもエネルギッシュで勝ちに拘る人間だと己の自伝に「テニスコートのペテン師」って付けるしかないのかもしれないが。そんな強靱アスリートでも引退するや昔のファンにテニスコートでビール奢ってもらう程度の扱いになちゃうのが、アメリカのスゴいとこでもあるのかいな。

ビリーはビリーで・・・

 ビリーは夫ラリー・キング(オースティン・ストウェル)との結婚を経てより強くなって全米女子チャンピオンになったって言われている。でも彼女はある日美容師のマリリン(アンドレア・ライスブロー)と出会って交流しているうちに彼女に夢中になっていってしまうのさ。それで少し調子が悪くなって1973年度は全米女子王者の座をマーガレット・コートに奪われてしまう。コートは夫と共に全米テニスツアーを巡業していって生まれたばかりの赤ん坊をかかえてプレーしているから生活かかってんだよね。だから必死さが違う。次第にマリリンとの恋にのめり込んでいって、彼女にビリーはテニスを始めた時の頃の思い出話をするんだけど彼女がテニスを頑張った理由は貧しい育ちから脱出したいという上昇志向からきたものだし、このままテニスを続けていくモチベーションを保つにはどうしても次のチャレンジが必要になってくるんですよね。観ていると何故にそこまで高い目標がないとやっていけないんだろうこの女、て気にもなるんだけど。しかしこういう性質の人間は気がつくと、知らないうちに周囲の人達を巻き込んで影響を与えていくのさ。夫のラリーは直ぐにビリーの不貞に気づくのだけど、相手が女性のマリリンだもんだから、もうどうして良いか解らない。で、最初ボビー・リッグスに「テニスの男女対決試合」を申し込まれてビリーは即断るのですが、何かとお金が入り用なコート夫人はボビーの試合の誘いに応じ、負けてしまいます。その結果に怒ったビリーに新たな闘志の火がともるのでした。

1973年当時の試合を再現、試合以上に「楽天的な」お祭り騒ぎ

 そしてクライマックスのビリーVSボビーの試合になります。ビリーは挑戦を受けるや閉じこもって一人で練習を続け、ボビーはひたすらにインタビューやら自己宣伝やらスポンサーとの付き合い(というかスポンサーからの接待を満喫)に興じます。男女の体力差や持久力の差を考えるとボビーの振るまいは必ずしも奢りだと批判出来ない気もするし、ボビーの周囲も彼にキツくは注意しきれない。あくまでも彼自身が精々みっともない試合運びにならないようにと心配するだけ。試合前のエキシビションとうか、格闘技の選手入場みたいなお祭り騒ぎの様子など今時のテニスファンからみるとあまりにものどか過ぎて驚くかも。この時代の人々はまだ「大阪なおみと引退した松岡修三なら間違いなく大阪なおみのストレート勝ちだよね」という予想が当たり前では無かった、卓越した女子アスリートの技術力や持久力は大抵の非アスリート男子のソレを凌ぐのだと気がついていなかったからです。たとえその非アスリート男子がかつてのテニスの世界チャンピオンだったとしても。

どうしてそんなに「より高いハードル」に挑戦したくなるのさ

 ビリーは男女のテニス頂上決戦に勝ち、開場の皆が興奮状態で彼女を迎えるけど、それを避けて一人ロッカールームにまた閉じこもってしまう。そしてやっと一人っきりで喜びと感情を爆発させるのさ。とびきり嬉しいのは確かだけどこの後自分はどうして良いか解らなくて不安でもあるから。んで、再びコートへ戻っていく。皆に挨拶と内心に決意を秘めて。実話ベースの映画の常としてその後の実在のビリーとボビーの話題が写真と共に紹介されるのだけど、ビジュアルがひたすらに派手で内実は穏やかで慎ましい老後を送るボビーと、地味に語られるビリーの型破りなエピソードの数々の対比もスゴイ。とにかく何でも着実に粘り強い女性はやってる事がいちいち大胆ですね。彼女としては過去の事を感謝して一個ずつお返ししてかなきゃってだけなのかもしれないけど、そうなるんだぁ・・・って感想にはなりました。

 

GOALを目指す女 ②  「わたしは生きていける」のシアーシャ・ローナン

 

 これぞ典型的な「GOALに向かって付き進む女は強いのよ」映画

 若くして主演作多数、オスカーの常連なシアーナ・ローシャンの主演作にしてはマイナーな映画の部類に入るかもしれませんが、劇場公開時にはサターン賞(SF映画ファンが投票して決まるその年の優れたSF映画に贈られる賞)というのは受けてます。現在スパイダーマン:ホームカミング (吹替版)からスパイダーマンを演じているトム・ホランドが注目された作品でもありますね。原作小説もありますが、この映画を撮っている監督のケヴィン・マクドナルドの代表作が「ラスト・オブ・スコットランド」というウガンダの大統領で悪名高きイディ・アミンを題材にしたヤツだってのがミソです。この映画途中から(というか元々狙ってたのは)リアルなポリティカルSF映画になることでして、なおかつヒロインのデイジーシアーシャ・ローナン)の若い女性目線で語るというのが重要になるからです。ちなみに映画で想定されているのは過激派テロリストからの核攻撃を受け英国で「内戦」が勃発するですよ。

慎重で大人びた長男、元気いっぱいの次男役のトム・ホランド

 アメリカの十代の女の子デイジーシアーシャ・ローナン)は夏休みにイングランドの親戚であるペンおばさん(アンナ・チャンセラー)の家に滞在しようとやって来る。ロックが好きでヘッドホン付けていつも他人をシャットアウトする風のデイジーはおばさんのトコの次男アイザックトム・ホランド)の歓迎を受けます。田舎にあるペンおばさんの屋敷に着くと長男のエドマンド(ジョージ・マッケイ)と幼い妹のパイパー(ハーリー・バード)が居る3人兄妹。お姉さん来たと喜ぶパイパーはともかくとしても、やたら僕らと一緒に楽しくやろうよと誘うアイザックと反対に終始そっけない態度のエドマンドは観ているコッチには不穏に感じます。唯一の大人であるペンおばさんの仕事は政府の要人で書斎に籠もって仕事をしていることが多い。そんな中でも自分の家庭環境に対する不満(父親が再婚して継母とうまくやれない)でいっぱいのデイジーは部屋の中で拗ねているだけだったのですが。映画鑑賞してしばらくして振り返ると、デイジーがこの時にエドマンド達にやたらと歓迎されたのは彼女がアメリカの国籍を持っているからだったんだろうなと思いました。そう考えると特にアイザックの態度には腑に落ちる事がある。母親から政府の内情を知らされている兄妹達にとっては何かあったときにデイジーと一緒に行動していた方が安心だからです。アイザックはいざとなったら友達のジョー(ダニー・マケヴォイ)なんかと一緒に家族と自分の信じる自由を守る為に闘う覚悟が既に出来ていたみたい。エドマンドといえば、デイジーを呼び寄せた事に引け目を感じるのか最初は彼女に素っ気ないのですが、デイジーの家庭環境や彼女の寂しく人恋しい感情に触れて、結局は恋に落ちてしまう。彼も心理的には終始緊張状態にありますから余計にそうなる。公開当時の映画の批評として「ティーンエイジャーの恋愛模様と近未来の戦争とのエピソードがかみ合っていないみたいなんだが、原作小説もこの通りだしなあぁぁ」というぼやきがあったのですが、前半の夏休みの部分(およそ30分は超えてます)が無いと後半のデイジーの強さとアイザックエドマンドの脆さと純粋な正義感が裏切られていく様がきちんとアピール出来ないのでどうしても前半部分が必要なんですね。突然に戦闘というものが自分の鼻先に突きつけられた青年達の悲劇をヒロインの眼を通して描く物語でもあるからです。

後半はデイジーが「家」を目指して突っ走る

 映画はデイジーエドマンドがお互い何かの啓示を受けたかのように、恋の予感が走ったねぇ、なシーンが前半部のクライマックスで、それにドキドキしながらデイジーと兄妹達で夏のピクニックのランチを楽しんでいる最中に、ロンドンが核攻撃を受ける様子を目撃して一気に転調します。家に戻るとおばさんはそれでも政府中枢に戻らなきゃと子供達を残してロンドンへ向かいます。(核攻撃受けたロンドンへ行けるのかって突っ込みが入りそうですが実際に劣化ウラン弾の爆撃なんかもありますので)おばさんは誰が来てもアナタ達はなるべく家に居なさいと言い残すのですが、数日もしないうちに武装した集団がエドモンド達の村にもやってきて「成人した若い男性は入隊、子供や女性老人達は家から出て疎開するように」と命令されます。デイジーは拒否しますが、エドマンドとアレックスは入隊してデイジーとパイパーは結局「軍」が用意した村に集団疎開して毎日農作業に勤しむ羽目に。疎開した先の村で一見平穏そうな日々が続くものの・・・段々にきな臭くなってきて、ついにデイジーはパイパーを連れて疎開先からエドマンド達の家へ戻ろうと深い森を突っ切って脱出していくのでした。というわけでその後は冒険に次ぐ冒険というかひたすら緊迫したシーンでラストへ向かいます。一体どういう経緯で戦争が始まったのか誰と誰が対立してる構造なのかも説明はありません。まずデイジー達が疎開村を脱出しようと試みるきっかけになるような大事件が村で起こるわけでもなくデイジーの直感で決断してしまいパイパーは最初嫌がるのですから。何故デイジーがこのように突然に人が変わったように意志的な女性になるのか・・・というのもやはり外国で育って英国にやってきたからと感じました。余所からの視点が入るので「コレはおかしいのではないか?」とね。彼女はパイパーと比べてもいわゆる正常時バイアスに囚われていなかった。

戦争というより内戦、無政府状態に置かれた難民としての恐怖

 デイジーとパイパーは疎開の村から逃げ出して森をさまよう内にやがて自分達に迫っている本当の危機は何かをはっきりと悟るようになります。ゲリラの男どもが各地の疎開先をおそって若い女や少女達を略奪しているのを眼にするからです。自分達も武装した男達に捕まったら慰安所行きです。デイジーは余裕が無いので捕まっている少女達を尻目に隠れて森を進んでいくのですが、やはり男達に捕まりそうになり対峙していくシーンも出てきます。ここで肝の据わったデイジーが完成したわって感じになるので、なんか一安心みたいな気分に一瞬なりますが、でもそんな中思いがけない形でアレックスと「再会」なんかするので・・・あぁぁってなりますわね。逃走する時にデイジーが疲れ切ってくじけそうになり気を失いそうになると「エドマンドの声が聞こえる」みたいな事が起きたりして、やっぱり英国の女性は「ジェーン・エア」のような直感で結びつくような恋愛ものが好きなんだわって思いました。

 デイジーとパイパーが我が家にたどり着くとエドマンドと再会し、その後すぐに停戦条約が結ばれてあっけなく危機は終焉するのですが、再会したエドマンドのPTSDは深くてふさぎ込んでしまう。でも私はエドマンドを支えるわってデイジーの宣言で映画はお終い。ブレグジット前の英国映画なんでEU内のゴタゴタに巻き込まれた?EU抜ける抜けないで国内の対立が深まり内戦になった?・・・その辺は詳しく描かなかったんですがこの映画で深めようとした「リアリティ」はそんな所にはハナっから無いから、こんな世界でもわたしは生きていける、で良いのですよ。

 

君よ憤怒の河を渉れ [Blu-ray]
 

  最近はリアルな「ぽりてぃかるさすぺんす」映画がネット(2019/07現在)でも話題ですが、私としては↑のような西村寿行原作のフィクションが一部「現実化」してんじゃんかよ・・・ってトホホな気分の方が強くて毎日が憂鬱です。もう個人的に「二十代の頃の現皇后」にちょっと目鼻立ちが似ていると思う件の女性ジャーナリストが白馬に乗って新宿西口を激走するとか、そんでもって映画の主人公高倉健ばりにハニートラップ疑惑に揺れた〇川パパが横で「だーやらぁ~だやらだやららぁ~」ってスキャットしてくれるすんごい下らない夢を見て夜は癒やされたいです。私急ごしらえの社会派映画で憤怒するほど元気無いんだ、最近は。

 

 

 

 

GOALを目指す女 ①  「フリー・ファイヤ-」のブリー・ラーソン

 

フリー・ファイヤー(字幕版)
 

「GOALを目指す女」について

 ついにアベンジャーズ「エンドゲーム」が公開されめでたく大団円したのですが、その直前にぶち込まれて公開されたのがキャプテン・マーベル MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]。私は近所のシネコンで観に行きましてスクリーンの前方に何故だか30代くらいの女性が座り、ブリー・ラーソン/キャプテン・マーベルが活躍するや一人熱狂して大仰にリアクションを始めだしたので些か驚きました。いやぁ・・・イマ平日の昼間の上映回だしお嬢さんもわざわざこんなマイナーモードの中でアジって周囲の暇なオッサン&ジイサン達にマウントするのどうなのか?て、戸惑いも覚えたりして。最近は一部この手の「主張するユーザー」が劇場内でちらほら観られるようになり、まあそれも劇場で映画鑑賞する際の楽しみのひとつになれば良いのかもしれませんが。てなことで↑の映画を紹介する際に最初は「HEROになる女」てのを考えました。・・・でも待てよ?私の映画評ブログで「女でもヒーロー」なるシリーズをやって観てきた映画集めてはたして面白いのかしらん?と。だって私はこれまでも映画の登場人物の行動/action, behavior にしか興味の無い人間だったじゃなあい。ヒーローなんて抽象的かつ後付でいくらでも言えちゃう事をテキトーに語るよりも女達がどう動くのかについて語りたいの。だからGOALを目指す女。以前「ぶらぶらする女」って日本映画のシリーズでまとめたんですが、ドラマツルギー/構成のあり方が日本とハリウッドじゃ異なるといおうか、はっきりした目標もなくぶらぶらする女性キャラというのはハリウッド映画ではまずお目にかかりません。それは一体何故なのかここ数年疑問だったので日本映画の「ぶらぶら」に対抗して日本以外映画に登場する「GOAL目指すぜ」の女性キャラについて取り上げるという事にしました。

 ブリー・ラーソンはずうっと「闘う女」

 そう彼女はキャプテンと呼ばれる前から闘う女で。↑の写真でも見る通り武器が似合う女なのが彼女なのだ。そしてルーム スペシャル・プライス [Blu-ray]で主演いきなりオスカーをゲットした時から、何かと闘う事が「母性」へつながるという展開になってしまうのも彼女。闘いに参加するのを許すけど、そこで君は一体何を「守るの?」というのを問いかけられているんだとも言えるのかな。・・・しかしB・ラーソンに向かってひたすらそう問いかける男どものしつこさって異常な気がするんだが、とにかく全篇にわたって紅一点のギャングである彼女に「今何してんの?それどんな意味あるの?君が一番大事してるモノって何?」とずーっと絶妙なタイミングで男どもが話しかけている映画であります。製作がマーチン・スコセッシハイ・ライズ[Blu-ray]を撮ったベン・ヴィートリーが脚本監督しています。で、この映画、銃撃をくらった人間が死ぬのってじつの所案外時間がかかるらしいという点に着目して、ギャング映画でよくあるおきまりの銃撃戦シーンだけでまるまる一本映画出来上がるのでわっ、やってみようよというアイデア先行で企画されたそうです。キャストが完全に決定してから脚本が役者に合わせて練り上げられたそうで、一旦ヒロインに決まったオリビア・ワイルドからラーソンに変更された段階で映画の中のヒロインの役割が変ったというか、彼女じゃなかったらより男性中心の映画という印象がしてたもしれないと思いました。

簡単に状況だけ整理しましょう。

 真夜中の倉庫の内で10人の男女がひたすら撃ち合いをするだけの映画なので。登場人物の構成は3チーム+フリーランス1名に分かれると思ってください。んで、舞台は70年代後半の北米にあるどこかの港町・・・だと推測されますw。(でも製作はほぼイギリスで実質ヨーロッパ資本のハリウッド映画と言って良いんだけどね。)チーム1はIRAのメンバーのクリス(キリアン・マーフィー)とフランク(マイケル・スマイリー)、何せアイルランドから来ているくらいですから10人の中では比較的ラリっていない人達、彼らに銃器の購入の仲介をしてあげるのがジャスティン(B・ラーソン)でクリスはジャスティンの事は好き♡、というのは映画冒頭で抑えておこうw。チーム2は地元のアイルランド系ギャングのバーニーとスティーボ(サム・ライリー)、ティーボはヤク中の危ないDV男です。チーム3はヴァーノン(シャールト・コプリ)を頭とする多国籍の武器商人グループ5人組、元ブラックパンサーのマーティンやアーミー・ハマーが演る伊達男オード、ヴァーノンの右腕ゴードン、そしてアイルランド系で元々港町出身のハリー(ジャック・レナー)。ジャスティンの仕切りによりチーム1のクリスはチーム3のヴァーノンから銃器の購入をし、チーム2のバーニー達が用意した倉庫で取引をしようって集まった。特に銃器の取引については揉める要素がなかったんですが、ヴァーノンの手下のハリーがスティーボの顔を見て「自分の従姉妹をバーでナンパして断られた腹いせに暴行した」野郎だと気がついてブチ切れて二人が大げんかすることになり、そのうち10人全員で銃撃戦勃発というコトにぃ。

女の「堪忍袋の緒が切れる」時を描くのが秀逸

 映画の時代設定は70年代半ばですが「フリー・ファイヤ-」はさすがに21世紀に製作されたアクション映画(そして当初はより蠱惑的なイメージのオリビア・ワイルドがキャスティングされた事からもうかがえるように)でなおかつ悪女が登場するフィルムノワールぽい側面があってもよさそうなモノです。ま、実際に裏切る女とそれでも未練がある男が登場はいたします。しかし脚本にエイミー・ジャンプという女性も加わっているせいか、ノワール的な男女の対立の描き方がやたらドメスティックなんで笑っちゃうになってしまうのですね。延々と続く銃撃戦のきっかけは「血の気の多い」アイルランド系の男達の喧嘩でジャスティン以下、ヴァーノンやクリスには全く関係が無いことに一見巻き込まれているようなのですが、ひたすら忙しないガンファイトの中で潜在的な対立とか各々に溜まっているフラストレーションやら偏見&言いしれぬヘイト/憎悪が露わになってくるのです。特に冒頭の波止場のシーンでは紅一点で(主にクリスによる)羨望のまなざしの中で洗練された女ギャングとして登場するジャスティとそれに面白くない感情を抱くヴァーノンの対立が際立ちます。ジャスティンは首にスカーフを巻きジャケットにジーンズにブーツという地上最強の美女たち! チャーリーズ・エンジェル (シーズン1-3) ソフトシェルDVD BOX 全巻セット(もちろん70年代)のファラ・フォーセットのように決めているのですが、そんな彼女にヴァーノン曰く「相変わらず綺麗だね・・・でも太った?」って挨拶する。その台詞にB・ラーソンのアップが被ると二重三重にも悪意が倍増するよう。彼女決して太ってるわけじゃないし、首も細く長いのだからスカーフでそれを覆っちゃうと「損する」タイプなんですね、ファラ・フォーセットと違って。南アフリカ出身のヴァーノンはとびきりの人種・男女差別主義者で、ことあるごとに他人を威圧する。黒人のマーティンとの間もどこかよそよそしくて互いに信用していない感じ。ジャスティンの裏切りや動悸というのは今の時代の観客にははっきり解るというか、人知れず今の自分のポジションに対してムカついているというのが伝わってきます。暗闇の銃撃戦の間、大騒ぎしている男達のなかで一人無言のまま、目指す獲物っていうかお宝に突進していく彼女。他の男どもはジャスティンが殆ど返事を返さないのに不安になってきて「何処にいるの~答えてよ~君っていつもは優しいじゃんかぁ」みたいな事を言って騒ぎ出すのですが、ソレを聞いたジャスティンがああ!ホントうざい、限界だわ!って芝居をするのに、個人的にもすんごい共感しました。騙されちゃったね、でもいいんだ僕はそれでも君のことがすきだから・・・で終始通すクリスもスゴイ内気で、有る有る、有るよねぇそういうのって、思ったよ(笑)。

 

 

お祓いされる女⑦「寝ても覚めても」の唐田えりか

 

寝ても覚めても

寝ても覚めても

 

 2018年度に男子ウケが最も良かった恋愛映画

 映画製作以前に原作小説に付いていたコピーが「人は顔で恋に落ちるのか?それとも・・」って結構衝撃的な文面だったのを覚えています。映画公開後の現在は「顔が同じだから好きになったのか、好きになったからそっくりに見えるのか」ってのに変更されていますけど(笑)。どう考えてもても大抵の男性観客は怒り出しそうな気がしましたが、フタを開けてみると男性の映画ファンに一層高評価だったでした。でも特徴があってインテリ系の人達ねだいたい。私自身はと言えば原作小説のあらすじ知った段階から「なんだか大昔のキャンディ・キャンディ コミック 全9巻完結セット (キャンディ・キャンディ 講談社コミックスなかよし )を思い出すような」という事ばっかり気にして観に行ったので正直もの凄く驚きました。この映画のヒロイン朝子(唐田えりか)のモデル、私「キャンディ」の主人公キャンディス・ホワイト・アードレーなんじゃないかと思ったくらいです、おまけに彼女をとりまく友達さえ「キャンディ」に出てくる彼女の友達の同世代キャラクター達を彷彿とさせます。映画観た翌日そういう結論に至ったよ。とにかく東出昌大が演る鳥居麦と丸子亮平の二役がまるでクローン人間のようなでありまして、しかもこの東出の芝居を観ながら「キャンディの歴代の彼氏達(アンソニーとティリーとアルバートさん)がまるでキャンディの漫画に登場する順番とは異なって出てくるように思えて仕方ない」という事に衝撃を受けておりました。もはや「キャンディ」の漫画を知らない人間にはさっぱり訳が解らない説明になっています。(笑)が、朝子というヒロインは「顔で恋に落ちる」のではなく「新しい彼氏と幸せになった段階で、直ぐ側に近づいてきている筈の元の彼氏の事は忘れてしまって全く気がつかない」状態に陥ってしまう、そこがキャンディとの一番の共通点であったりするのでした。

朝子にとっての大恋愛(大阪)、亮平にとっての恋愛(東京)

 映画は朝子と麦の衝撃的な出会いから、麦の自由奔放な振る舞いに朝子が振り回され急に麦が朝子を置いて何処かに放浪しに出かけてしまって二人の恋は唐突に終わる、というのが序盤です。それから舞台は東京に移り、関西から東京に赴任してきた丸子亮平(東出昌大)が中心になって進んでいくようになります。んで観客は(朝子の過去を知りながら)亮平が訳ありの朝子に惹かれていく様子に付き合っていく。この映画実質は「男の為の少女漫画チックなメロドラマ」なんですね。亮平の周囲には他にも朝子の東京で出来た友人で亮平を密かに想う鈴木マヤ(山下リオ)亮平の会社の後輩で後にマヤと結婚する串橋(瀬戸康史)が登場します。亮平と朝子が始めて出会った時、朝子は当然のごとく昔の恋人とうり二つの亮平に驚きうろたえてしまい、それが亮平に強い印象を与え、彼女の事が気になっていく。もうこの辺から映画の真の主人公は亮平じゃんかになっていきますが、私にとっちゃこの映画を振り返ると「序盤を過ぎて亮平/キャンディだとアンソニーに相当するキャラクターが中心になっている」みたいに感じてしまってなんだかヘンな気分に陥るのでした。アンソニーってのはキャンディのローティーンの頃の彼氏で、正義感に溢れ周囲の女性達にはモテモテなのに質実堅実な貴公子。でも将来設計としては地主クラスの農家の御曹司で早世してしまってあっさり「キャンディ」の物語からは去ってしまうのですが。亮平の職業は酒造メーカーの営業ですが営業は営業でも酒造りの工程において農家と交渉する仕事の方が元々大好きって設定でそこもアンソニーっぽいです。もしやコレはアンソニーの逆襲なのだろうかっ、と東出昌大観ながらずっと頭の中に渦巻いていました。(笑)

東京の友人、大阪の友達

 んで、朝子の大阪時代、前彼の麦とも共通の知り合いなのが朝子の大学の同級生である島春代(伊藤沙莉)と同じく同級生で麦とも親戚関係にある岡崎(渡辺大知)です。春代と岡崎は映画後半にも登場しますが、彼らの運命の対比があまりにも残酷なので、コレに引っかかりを覚えると観る人が尚更困惑するのと朝子がやらかす後半の変節ぶりへの不信感が一層増すという不気味な効果を与えているのも鑑賞ポイントかもしれません。春代は自分は朝子ほどは可愛くないがその分コミュ力と人を見抜く力にプライドを持って常に堂々としている姿と、対する岡崎の子供っぽいだけではないマザコンぶり(田中美佐子演じる母一人子一人の母子家庭)も大阪部分ではいきいきと描かれているので私自身顛末はかなり寂しい気分になりました。しかしながら一日経ってみると「でもキャンディに登場する男女で一番性格の良い二人(ステアとパティ)は結ばれなかったわぁ、それに岡崎くんはお母さんが一番好きだからアレで良かったのかも・・・と一人で納得してたので、私の中の「寝ても覚めても」=「キャンディ・キャンディ」は止まらないのでありました。

キャンディへの「逆襲」

 原作、脚本、監督自身は「キャンディ」なんて漫画に全く影響受けずに映画製作した可能性が十二分にあるのでw(ただし年齢的に製作サイドはキャンディのアニメ等を子供の頃から知っている層ではあります)、「なかよし」よりは「少女コミック」ぽい少女漫画を連想する観客がいてもよろしいですよ、そりゃあ。ただ余計な事を付け加えると「キャンディ」に代表される70年代少女漫画の中には「女の子が自立しすぎるとオトコ運が悪くなるので適当に切り上げて王子様と結ばれろ」という隠れたメッセージが有りました。だから「なかよし」連載時に読んでいた「キャンディ」の愛読者の大半にとってキャンディって「不良のティリーと分かれた時点で物語は実質終了、後日談で幸せになる」漫画として最後に完結しました。70年代黄金期の少女漫画の中でも「キャンディ」って熱狂的な男性ファンがいる事でも有名なんですが、私顔は同じ系統の美形のまんま熱血優等生からやんちゃな不良青年へ気を移し最終的に年長の金持ちの嫁になろうとしているキャンディに生臭い女の欲望丸出しな姿を見いだしていたので20代に成長した段階ではヒロインとしてのキャンディにちょっと引いておりました。その頃はバブル絶頂期でもありまして、大人になる事と男を選ぶ事ががっちりとリンクする行動になっているのは結構しんどいものだったりしたのです。どんなタイプだろうがどっかで自分自身の「打算」がそこに見え隠れするもので、ソレが頭をよぎって悩み始めると止まらない。だから朝子が麦と再会してああいう行動に出るのは私的にはさほど違和感が無くその後しばらくして岡崎の家に見舞いに行き岡崎の母との会話で勇気を出そうとする朝子の姿にもとりあえずもう大人なんだから自分で落とし前を付けようって感じだったので、まあ良かったかなあと。ティリーと分かれたキャンディが徐々にさばさばしていくのと変わらないようなぁ(笑)。とは言え男性観客からすると麦の再登場してからの展開はブレードランナー 2049 (オリジナルカード付) [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]でのライアン・ゴズリング気分になりそうな程、キツいもんがあっただろうとは思います。麦曰く「お前(亮平)はクローンだから役目終了」てなもんよね。 

キャンディ・キャンディ 全6巻文庫セット

キャンディ・キャンディ 全6巻文庫セット

 

  幼い頃にキャンディが憧れた丘の上の王子様も「だからさあ、彼奴ら(アンソニーとティリー)はクローンでプロトタイプは俺」で再登場に映った読者が特に男子達には多かったのかもしれないわぁ・・・て「寝ても覚めても」観た翌日に思い至りました。彼ら案外ショックを受けていたりして。TVで人気の林先生は「キャンディキャンディ」の漫画がお気に入りなんだそうですが、林先生自身は優等生のアンソニータイプから一発当てたいギャンブラーのティリー、そしてアードレーのオジサンみたいなフツーの金持ちになってバブル時代を駆け抜けたのであって、キャンディ推し以外に男子では推しキャラは存在せず「キャンディが寄ってくるような自分にメタモルフォーゼしていくっ」という戦略に行ったみたいです。でもそんな無茶するキャディファン男子ばかりではないはずなので。「キャンディ」男子読者にとっての推しボーイキャラは一体誰が一位になるのだろうとは気になります・・アンソニーってそんなに重要だったのかと「寝ても覚めても」観て私一人で勝手に唸ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

お祓いされる女⑥ 「スウィート17モンスター」のヘイリー・スタインフェルト

 

 原題の「Edge of Seventeen」のままの方が

 この映画の場合は良かったんじゃないんですかねっ。第一に「スィート17モンスター」じゃ言いずらいし字面が良くないよ。なんでコレなのかな?としばし考えたのですがおそらくタイトル決めた人は主人公のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルト)を一種の悪女、それもド天然の・・・に捉えていたのかもしれません。興行収入はそこそこでしたが批評家にはウケてトロント映画祭では観客賞を取りました。今の日本の女子高生からみたらどんな反応なんでしょう・・・となるのは、今どきの日本の十代を取り巻く環境から見ればヒロインの行動は痛いというよりはかなり危なっかしく、よくこんなんでどっかのオジサンや不良男に騙されたりつきまとわれなくて済んでんなあ、と驚く事も多いからです。よく考えたら地雷原を運良くくぐり抜けて少女が大人の女性になっていく物語が存在しているのがハリウッド映画の強みの一つかもしれません。制作者のジェームス・L・ブルックスはオスカー作品賞も手がけたハリウッドでは超有名プロデューサーで脚本監督のケリー・フレモン・クレイグのデビュー作。女性監督ですが彼女を取り巻く三人のイケメンであるネイディーンの兄(ブレイク・ジェンナー)、同級生のアーヴィン・キム(ヘイデン・セットー)、ネイディーンが片思いするニック・モスマン(アレクサンダー・ヤルヴァート)の描き分けが秀逸でした。このおかげでネイディーン担任教師ブルーナー(ウディ・ハレルソン)の親父な個性も活きるのさ。

昔、私の知ってた娘がネイディーンそのまんまだったの

 彼女は17歳ではなかったんだけど、ネイディーンと同じように兄貴が居て彼女の家族仲良くて多少ファザコン気味だった。そのおかげでどうして口を開くといつでも下ネタ全開になるのかだけは謎だったが。ネイディーンも毎日のように親友クリスタ(ヘリー・ルー・リチャードソン)と下ネタトークばっかりしてて学校では当然浮き上がっている。彼女のクラスメート大半に言わせると服装がまずダサいし何より子供っぽいらしい 。ネイディーンのお気に入りのスタジャンは男っぽいというよりまるで小学生の男子がカッコ良い~と喜びそうなワッペンがいっぱいくっついているヤツ。彼女にしたらそれはポップでオシャレなスタジャンなんだけど周囲には伝わらない。ネイディーンは自分では他の平凡の子達とは違う個性的なセンスを持っているという自負があるのでソレを解ってくれそうな(学校でも超然とした雰囲気の)ニックに憧れていて、同じクラスの優等生だけどもやや気弱なオタク気味のアーヴィンと仲良しなのだ。彼女の環境に何か「闇」が生じたとしたら13歳の時に父親が突然死したこと、そして一つ上の兄が親友のクリスタと電撃的に交際を始めたてことさ。

ひたすらに「明るいだけの家族」にだって闇もありゃ危機もある 

 父の死後一家の経済を支えている母(キーラ・セジウィック)はまた自分の新たなパートナー探しにも必死。んである日泊まりがけのデートに行くために家を一晩開ける事になってネイディーンと兄ダリアンと二人で留守番するんだけど、お互いに友人を家に夜遅くまで引き留めて競い合うように飲酒して騒ぐ。んでクリスタと一緒に一晩飲みあかして二日酔いになったネイディーンはクリスタとダリアンが一緒にベットインしているのを目撃して激しいショックを受けてしまう。兄貴の方が学校でも優等生でしかもイケメンなんでとっくに彼女がいてもおかしくはなかったんだけどネイディーンにとっては親友の裏切りだしキモくて受け入れられないのだ。コメディタッチで軽く展開しているように一見みえるけどかなり異様なんだよこの設定。クリスタは「何だか解らないけど彼とそうなってしまったし私は交際を止めない」てネイディーンに告げるしね。以前はネイディーンと一緒に妄想過剰な下ネタトークや兄貴への悪口言っていた彼女は一夜にして自分よりはるかに「大人の女性」になっちまった。その夜以来ネイディーンには完全に居場所がなくなってしまう。

「妄想」から「クリアすべき課題」にシフト

  というわけでネイディーンが一見暇そうな教師のブルーナーにしか相談出来なくなってしまうのが映画の冒頭部分。USの高校では教師と生徒が一対一でカウンセリングするのが普通の事なのかは知らないが、誰も私の話を聞いてくれないので先生にひたすら話してみたという女の子の話は日本でも聞くので偶に居るのだろうこの手の娘。家に帰ってもやることが無いからアーヴィンに電話してみたり、彼の住む豪邸で遊んでみたり夜の遊園地に行ってデートしてみたりする。しかしネイディーンって娘には異性に警戒心がまるっきり無い。何故にこれほどまでに無いのか?家族は母以外に死んだ父と兄貴しか存在せず昔っから自分に危害を加える危険な異性というものを知らないからなんだろうか。でも実際のところネイディーンはどっかで実の兄貴の事は「警戒している」んだよ、無意識のうちにだけどね。ネイディーンは本来思春期ならば当然通る「男親を忌み嫌う」時期の真っ最中なんだけどそれを兄貴へ向けている。ただそれは一個上だけの兄貴当人にはもの凄く負担なんだ、だって自分だって妹以上に内心悶々としてるのだから。でなきゃ妹としょっちゅう一緒にいる幼なじみの女の子とどうしても付き合いたいっ、て思い詰めたりなんかしないよ。この兄貴どうして自分の母親と妹を守る事ばかり気にかけて自分の将来は後回しなのか?って所は気にはなるんだけど・・・(やっぱり女性からみた男性像だからなのかな)でも意外とこの手のタイプの若い男の子は多いとは私も思うんだ。んで、彼らは恵まれていない部分もあるのにあまりソレについては悩まない。彼女やら家族やらを起点にして将来設計する気しかないって分気楽で居られるというのもあるのかなあ?

ネイディーンをとりまく男子

 思春期前期に父親が急死してしまったせいで、かなりのファザコンになってしまったネイディーンの事を気に入る男子は何故か兄貴、というより父親そっくりなタイプだったりするのですよね。自分にちょっかい出してきて甘えて振り回してくれるのが嬉しいってヤツ。アーヴィンて男の子はアジア系のお坊ちゃまで両親共働きで夫婦二人で出張に出かけるのに一人で数日留守番してても大丈夫なくらいに自立している。デカい屋敷に住んでてジャグジー温水プール着いているとか。学校にいるときはオタクのような地味で内気な振る舞いをしてるけど実態は王子さまです、でもネイディーンには「あなたってgentle/おじいさんみたい」と言われちゃう。(字幕では確か年寄りとかジイサンみたいって訳で出てました。今の米国だとホントに十代の男の子へgentleて言うとショックを受けるのかもしれないのですが)ぶっちゃけ真面目な兄貴にも人種が違うだけでそっくり。彼女が片思いしているニックに至っては、実は三人の男どもの中では最もオタク度が高くて内気で子供っぽい。不良ぶってるけど不良でさえない。だから彼女はもの凄い地雷源を知らない間にすり抜けて大人の第一歩を踏み出して映画は終わります。殆ど些細な葛藤で丸く収まるのが奇蹟のよう。しかも兄貴と妹は互いに協力しながら二人とも父親不在の危機を乗り越えていたというのも最後に理解が出来るという。それから父親の代わりを堂々と担うブルーナー先生とかね。まあこんなの今の日本じゃ有り得ないわゎぁぁ・・・って感動したりもしますが、同じような兄貴と妹の家族ドラマでヘレディタリー 継承 [Blu-ray]なんて映画も最近のハリウッド映画のヒット作にはまた有りますから、家族の持つ明るい希望とどす黒い闇との対比と双方距離の「近さ」にもまた私は思いをはせるのでありました。