2018年に劇場で見つけた「妊活映画」コレクション

 

悪女/AKUJO [Blu-ray]

悪女/AKUJO [Blu-ray]

 

 このネタだけは年内にアップするぞっ

 と数ヶ月前から決意していました(笑)。2018年の個人的ベストなんてもう頭痛くなってくるだけのような気がしてきた。(年間100本以上観てきたので自信をもって年間ベストテン選びますって方々って尊敬しますわ、特に仕事でもない方)コッチは年間100本も観てないのに今年は劇場で相当寝てました私。ああ!今回上げる3本は違いますよ。あと超個人的な「ネタ」として取り上げてるので個別の映画の凄さを予想して期待感が増すか?と言えば・・・多分お役には立てませんゴメンナサイ。

 で、韓国の「悪女」です。残念な事に#me too 流行の中でカンヌあたりの映画祭に出しても評判は取れないでしょうコレじゃ。何しろヒロイン(キム・オクビン)に絡むエスパー伊東似のアポジ(シン・ハギュン)がキチンと家族計画していたら悲劇は起きなかったのでぇ。ファザコン気味の若い娘に強力なモーションかけられてその気になるのはしょうが無いですが、若い娘を殺人マシーンに育てないとか、自分ではこっそりパイプカットしとくとか少しは考えを詰めないと。(最近だと直ぐ元に戻せるそうですよっ)それに思い至ると中盤の結婚式以降の展開で飽きてしまうのね、私っw。

 

 

  上記の「悪女」より続きさらにバカップル度が上がりするとR指定のファミリー映画」なデプー2になります。さすがにコリアン暗黒街のボスと比べるとデプーの人生観や結婚観はポジティブなので、避妊を止めて妊活への誓いを交わすデプー(ライアン・レイノルズ)と恋人ヴァネッサ(モリーナ。バッカリン)は互いの指輪交換ならぬIUDとメタルバッチ(かなんかだと思った)の交換をします。IUDってのは所謂子宮リングのことで銅が精子を避ける効果が有るようなんですが、でもだからと言って映画のように「貞操帯」のような全部金属製の形状はしておりませんから。いくら意識低い系と言われようがカナダ人的にはギャグで通じてもそれ以上に性教育不全の多くの日本人にとっては意味が分かりません。日本のヤンキーの中にはゴムつけなくても忍術とか気合いで避妊する認識程度の馬鹿野郎が未だにたくさん居るのです(哀)。彼女はまず「自分を守る為に」バースコントロールをするのであって、愛する僕の為に貞操帯を外してくれるんだね有り難う・・・って意味だと追加で解説してくれると助かります。そしてゴムだって「俺様の身体を守る為」が第一目的ならないと!(まあヴァネッサの設定ってエロいけど純情なストリッパーってゆうもの凄くイージーでご都合主義的な設定のヒロインなんですが)・・・それこそ「デプー2」のPCの中では最も秀逸な部分になり得るのかもしれないかなと。

 

 

 そして貧しく知識も無いせいで「父になれない」男ってのも世の中には居ます。それがこの映画の主人公の治(リリー・フランキー)。普段は狭い家に家族6人という大偽家族なものですから思うように妻の信代(安藤サクラ)と何にも出来ないのですが、どういうわけだか夫婦二人きりになった夏の昼下がりに久しぶりに妊活に励む。とにかく終わったらいきなり「な、ちゃんと出来ただろう?」って女に聞くのもかなりヘンなんですが、この2人は本能のままにヤっても子供が出来ない。夫と妻のどっちに問題があって不妊なのも解らないし調べない。だいたいそんな難しい事をお互い突き詰めるより妻の信代曰く「他人が捨ててきたものを拾った方が早い」からこんな偽装家族を作ったんだね。一見いかにも古き良き日本映画を新たにやってますよぉシーンなんですが治と信よの2人の台詞のやり取りを注意深く聞いてるともう謎だらけだし「疑惑だらけ」なの。・・・おそらく治と信代は以前に「美人局」みたいなのをやらかしてます。映画では治が信代の旦那を(治の言い分だとDVに遭ってた信代を守る為に)過剰防衛による傷害致死させたとして服役した過去も有るそうなんですが、本当の所はどうだったのか?は映画では語られていない。息子の祥太(城桧吏)だってパチンコ店の駐車場の車両でほったらかしにされていたのを勝手に連れ帰って育ててきたけど、本当の親が赤ん坊の彼に冷たかったかどうかも実は不明。治と信代の夏の昼下がりのシーンはこの男女の底知れない悲しみと底が抜けている部分を描いているから名シーンになりました。治って男は無邪気な分、とんでもない「悪徳」を抱えてるのは間違いないし、だからこそ息子の祥太が万引き家族を破壊してくれて不肖の父親たる彼は何とか救われたのですよ。しかし前作の三度目の殺人といい、今度の「万引き家族」といい、こんな設定を秘めた内容を匂わせておいた上で映画を無理矢理「G指定」で作り倒してしまうセンスはちょっとどうかしていると思います。(もちろん良い意味でw)

 

  すっかり忘れてましたこの映画。この監督の前のヤツフレンチアルプスで起きたこと [DVD]と比べると分かりにくいよね、って思った方もいたのでは?でもコッチが2017年度のカンヌではパルムドール。ちょい難しい分風格が増しています、特にギャグの部分でね。妊活には当たらないのですが主人公のクリスチャン(クレス・バング)とUS人記者(エリザベス・モス)のアバンチュールでの「避妊具を巡る激しいバトル」が中々にミニマムかつみみっちく繰り広げられるのは笑えます。そりゃ女性にとっちゃ途中で勝手にゴム取って挿入する野郎は許せんし厳しく監視しなきゃいけませんが、そうかと言って勢い余ってどこまでヤルと安心出来るのかテンパってしまうエリザベス・モスはスゴかったです。彼女の宿泊する部屋に何故だかチンバンジーが居て、その後美術館主催のパーティーでゴリラの白熱したパフォーマンス繰り広げた男性(テリー・ノタリー)のシーンも合わせて見物。やっぱ北欧の市民だとて今現在最も洗練された「文明圏に生きてる」て意識が強いのかしらん?人間とサルとの対比にこだわるのが、北欧に生きる人々が抱えるの自己欺瞞の不安を表しているのかもしれません。テリー・ノタリーという方は役者というより猿の惑星 トリロジーBOX (8枚組)[4K ULTRA HD+3D+2Dブルーレイ] [Blu-ray]のシリーズでも活躍し、主に動物の形態の演技では第一人者というプロフェッショナルだそうです。彼のゴリラ演技になんだか怒りの感情を見て取った私は。アレはどういう解釈で監督とノタリーさんが話合ったんだろうと印象に残りました。最後は妊活とは関係無い話になっちゃった。でもひょっとしたらあれはゴリラの発情と求愛の演技だったのやもしれぬ。(笑)

 

 

 

 </p>

 

 

 

  

お祓い/Purification される女 ⑤ 「ピアニスト」のイザベル・ユペール

 

ピアニスト (字幕版)

ピアニスト (字幕版)

 

お前とらぶ♡ぼくしんぐ、とことんらぶ♡ぼくしんぐ

 よく女性が書くブログやSNSに出てくるようなクズ男の描写だと「日頃アタシに何も連絡くれなくてちゃんとした彼女のような気がしてなかった今日この頃突然暇だからと急に呼び出されて来て会ったらいきなり押し倒されて終わるとまた急にアタシに興味がなくなりしょうがないので別れて夜道を一人とぼとぼ歩いて帰っています。アタシは今とても哀しい」・・・等とゆうのを偶に目にする方が居るかと思いますが、まず書き手女性のネタ(悲恋ポエム)だと考えて良いと思います。「ピアニスト」の監督ミヒャエル・ハネケはこの作品をメロドラマのパロディだって言ったそうですが その彼が想定しているようなメロドラマが上記のネットに溢れるような女性の想像する「酷い男との恋愛に傷つく女」のお話。言い換えると20世紀的には中島みゆき風一人芝居、蓮實重彦センセ言うところの19世紀的なメロドラマ、と言い換えることも出来そう。あのさ女性も充分に社会進出してんだから俺らだっていつまでもそんな都合の良い「クズ男」なんてやってられないよ、っていうのが実はこの映画のヤバい所です。原作小説があってどうも作者女性の実話を元にしているらしいという噂(学生時代には演劇、美術史を研究しつつオルガン奏者として二足のわらじをはいて活躍してた才女なんだそう)がある、ソレ踏まえると告発でもあるので中には観たらショックを受ける女もいそう。現実はとことん残酷なのさ。

偶然だってひょっとすりゃ運命、俺とお前は闘う宿命

 冒頭ヒロインのエリカ(イザベル・ユペール)と母(アニー・ジラルド)の親子喧嘩シーンが結構長くあり、注意深く2人の芝居を観ていないとこの母親の娘への締め付けの内容が結局何なのか21世紀の日本人の感覚では掴みづらいかもしれません。まず原作者のエルフリーデ・イェリスタという女は自分の家庭の事情で心身が辛くなり、精神科医の勧めで創作を始めたのだそうで「ピアニスト」の発表は1983年、でも映画はだいたい映画公開時(2000年)のウィーンの世相を映していると考えた方が良さそう。・・・というような事を踏まえますとエリカ母の理不尽な態度というのは自分の娘に対して「自慢の娘と夫の身代わりと自分のライバル」像を託している事からくるもので、お母さんはとにかく混乱してて娘に頼り切りのようなんですね。エリカの父親は精神を病んで病院に長く入っている。エリカと母親ではこの「父/夫」の存在の重要性は全く違うというのも映画後半描かれるのですが、そこは今の日本の毒母と娘の状態のケースとは似て非なるものかもしれません。「ピアニスト」を観るとオーストリアの家父長制は日本のソレとは比べものにならないくらい強力で強権だと云うこともよく分かります。そして若くハンサムでやたら快活にエリカへアプローチするワルタ(ブノワ・マジメル)という男は強力な家父長制度をもった社会の男性代表みたいなヤツ。彼はピアノ教師一筋で地道にキャリアを築いてきたエリカを圧倒する。大学で電気工学を学びスポーツもという文武両道、さらにピアノにも才能豊かで音楽大学の教師達に絶賛されてしまうのさ。んでエリカにピアノの講師を懇願してくる、口説きたい気満々で。どうして40手前の女に25の男がガンガン言い寄るのかが説明ないのですが(ただ似たようなシュチュエーションで年下に追いかけられている女性を間近で見た事はあるので)時々はあるんでしょうねこうゆうの。

何時でもお前は笑ってるの、ギリギリの距離でかわされるのっ

 「ピアニスト」は他の方の映画系ブログでもいくつか在りますが、女性の書き手は圧倒的にヒロインへの性被害に激怒していますし、男性の場合は「ものスゴく夢中になったのに年上の女が裏切り続けるので怒った若い男が罰した」てな風に話の顛末を(アマゾンレビューだったかな)解釈してました。そのレビューを読んだときは映画未見だったので何のことやら?と思ったんですが。・・・まあ主にエリカ様の性癖が拗れきってしまって喪女状態がスゴすぎた所為だからでしょう。でもワルタ君はエリカ様の告白だとか手紙だとかを全く信じていないし最後まで理解にしてないのですが。エリカは長いこと男性ばっかのポルノショップに出入りしたりカーセックス中のカップルを覗いたり、覗いたりしてる時に失〇するとかぁ・・・ポルノ施設にいる周囲の男どもも彼女に引いてしまって声をかけられないくらいの彷徨ぶりでウィーンの夜の街を過ごしてきたからです。ピアノの教え子に対しても女の子には優しく男の子には徹底的に虐めまくってマウントする。もうこのくだりでワルタ君に「君もまだ若いんだから考え直せ」って云いたくなる人も続出しそう。周囲の強い男に負けたくないばかりに内気な露出狂の変態オッサンの女体化みたいになっちゃったのを映画で見せられてもちょっと困るって気になりますが、そんな自分が哀しくて涙を流すイザベル・ユペール映画の中でも一番綺麗だったりする瞬間だったりするから尚のこと戸惑う。そしてエリカはワルタ君にはこのような姿は見せてはくれません。てか彼はエリカの話を終始聞かない、彼女が思いきって「自分はド変態でドMだからアナタは何時でも終にして良いのだ」と暗に打ち明けるつもりで手紙書いても怒ってエリカの家に押しかけるだけ。彼女の家だって教えてもないのに自分で後をつけて探しだしたとか平気で言っちゃうし。(駄目でしょ)

か弱い身体/BODYにくらわせるの、覚悟を決めろよ(イヤ犯罪だから、それは)

 エリカはワルタに言い寄られて自分も寂しいので、つい受け入れてしまいそうになりますが、何せ実態は「痴女だけど喪女」だったりするので彼にバレるのがひたすら怖い。なんで一か八かでトイレで彼に出来うる限り満足させてやる、なんつう事してしまいます。これがヒジョーに緊迫感のある男女のやり取りというかどっか清廉な青春ラブコメ風なのか?で描く。ワルタはエリカにいきなりズボン下ろされてパンツに手ぇ突っ込まれてパ二クっている表情の上に何故か「可愛いピアノ小曲」みたいなBGMが乗っかるのがヘン。でも終わったらワルタがヒャッホーって喜んで小躍りしちゃうし。後、最後にもう一回ヘンテコなBGMが印象的に鳴り響くシーンがあります。これボクシングのゴングのつもりなんじゃないかと私思ってる。男と女の間の格闘技こそが恋愛で何ラウンドも続いていくから快楽もあるんだぜ商業的ポルノグラフティなんかくだらない!って手厳しい文明批評な感じもします。が、エリカとワルタのバトルはトイレ内での激闘のワンラウンド後、エリカ様のピアノ個人教授シーンに移り、数分に及ぶワルタのピアノ演奏とか(ブノワ・マジメル特訓したそうで演奏見事です)なんだか妙なアングルとか2人のコントみたいなやり取りとか、もしもここんとこ高尚なポルノだったらどうしよう(笑)と心配になるほどケッタイだったりするので・・・(..;)。

アッパー出してよ、俺のことグロッキーにしてよ

 トイレでの己の勝利に酔いしれたのにエリカとはこの後曖昧にかわされるばかりだったり、延々と理屈をこねられるし、誘われているのに俺はちっとも気持ちよくならないし、で徐々にワルタは不機嫌になります。エリカはエリカでそれでもうしょうが無いなって感じであきらめてしまう。エリカの家では父親が入院先で死んだという知らせが入り、母親が動揺し、なおかつ止めた時間がまた始まったように娘への態度が変わっていく。そういや娘は好い加減恋人ぐらい居なきゃおかしかったわあぁぁぁって。でもなんだか母娘ともあまり深く考えたくないしぃ・・・とボンヤリしてた所へ、いきなりワルタが殴り込みをかけてくるw(という表現が一番ふさわしいかも)。エリカと彼女に感情移入して観ているタイプは彼が彼女に怒ってとっくに興味を失っていると認識しているタイミングなんですよね、それなのに「散々じらしやがって何のつもりだコッチは全部お前の為にやってんだぞ」ってわめき散らすのですから、女の方は訳が分からない。第一ワルタのやってることはエリカ様の言いつけなど一個も従っていないし。ホントに女の話を聞かずに何時になったら本番のセックスが出来るのかどうかしか頭になかったらしい。ただの鬼畜野郎です。あと事が終わった際に「この事は他人に言っちゃ駄目だよ」とまで言い放つんだわ。エリカのおっかさんときたら娘に起きた事把握してる筈なのに、若い男の蛮行の恐れおののいて全く役に立たないし、もう無茶苦茶。例えば小津映画だったら娘の家の外でひっそりとハッキリ暴力的に描かない事を家の中でやっちゃうんでヤバすぎですし、悲惨。エリカ様は当然💢に震えます。

そして次のラウンドへ

 映画のラストはエリカのピアノ演奏会で、エリカはワルタを待っていると(彼女はぶっちゃけ彼が自分に完全に飽きてしまって内心来ないのではと気にしているので)すっげー自信に満ちあふれて爽やかなイケメンそのものでエリカの前に登場し「今日の演奏期待していますよ」と告げます。んで絶望したエリカが自分の片腕をナイフで刺して映画は終了。何じゃソレって思います? 付け加えると、ワルタが登場する直前に妙に甘えて媚びた女の笑い声が響くのですよ。エリカ自身が気づいているかどうかは解らないんですが、とにかくゴングが鳴って学ばなければならないの今度は彼女の番という事らしいですね。ひょっとしたら彼女が与えられる番になるのかもしれませんが、相手はなにしろとんでもなく自分勝手な野郎ですし。それとワルタと差し違えるの止めたからって何故自分の腕を刺すのだけは解らなかったは私だけですかね。(まあそれまでの経緯を考えるとヒントは在るかもですが)

 

 

 

 

 

お祓い/Purification される女 ④ 「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせガール」の水原希子

 

 しかしタイトル名が長すぎてめんどくさい・・・

 以前にも書きましたがちょうどこの映画が劇場公開された折、「まだ首相でいたいボーイとすべての政党狂わせガール」というキャッチーなコピーをネットで見つけましたがそれ以上のできの良い換えフレーズがなかったってのが、この映画のやたらと面倒クサい部分を象徴しているような気がします。だいたいどうして奥田民生になんかなりたいのさ、若い男が。そこが当初から疑問だった。(笑)当然奥田民生になりたい理由は主人公コーロキ(妻夫木聡)にはキチンとあって映画冒頭にヒロインの天海あかり(水原希子)に延々と話すのですが、じゃあ奥田民生みたいになった自分って具体的にはどんな人間に出来上がるのか?というのはイメージがワカナイ。コーロキは編集者なのですが男性誌から出版社の看板であるスノッブなオシャレ雑誌「マレ」に移動することになり戸惑っている。名物編集長の木下(松尾スズキ)は多彩な個性の部員が欲しくてコーロキみたいな一見するとダサい感じの自分にもそれなりに期待はしてくれている様だけど、やっぱり慣れない。そんな落ち着かない引き継ぎ期間に取材先で出会ったのがアパレル会社の広報担当のあかりだったのさ。しかしながらこのあかりちゃんという娘、超ほれっぽいとおうかそこまでイージーにコーロキの告白承諾して大丈夫か?って感じ。(500)日のサマー [AmazonDVDコレクション]のサマーと一見似ているようであかりはだいぶ違います。両者とも相当に変わってますが、正直私自身はサマーの方がまだ親近感がわくといおうか話相手くらいにはなれそうな気がしてます。あかりはもう同じ女性だとしてもまったく別の生き物のようです。

猫のような女が好みのタイプなんだそうだっ

 あかりはコーロキとあっさり付き合う事に決めて、さっさとイチャイチャ初めてしまうけど、実は直前までコーロキの先輩編集者のヨシズミ(新井浩文)の彼女だった。特に理由もなくコーロキにアプローチされたから彼氏を取っ替えただけなのだ。普通の頭で考えたらあかりという女の子に不信感を感じても良さそうなもんだがコーロキはあかりに目がくらんで彼女の言いなりに振り回される・・・。しかし今どき大手出版社勤務の雑誌編集者って肩書きだけでもモテそうなのにぃ、何故?て観ながら思っちゃった。良い仕事についてるエリートなのに此奴らそんなにも普段モテないのかと。役柄が同じ編集者というだけで潔く柔く (2枚組 本編BD+特典DVD) [Blu-ray]に出てくる岡田将生だとかと比べてしまう。あんなんでモテるならこっちの映画の編集者だってさあ、てちょっとだけ思ったのだった。まあ互いの映画の演出の仕方によって独身男のむさ苦しさの表現が違うのだけど(笑)それだけじゃなく「奥田民生になりたいBOY」ですから当人の理想がかなり高めなのもおそらく一因、ってコーロキには自負もあるだろう。木下にあかりとの交際について相談して「猫のような女がタイプなんだよね」って互いに話し合ったりするし。でも21世紀を生きる大半の若い娘にとっちゃコーロキやヨシズミ、木下のような面倒なこだわりを抱えた男達は意外に恋愛の対象外なのかもしれない。下手すりゃ彼ら以上に面倒なこだわり屋のコラムニストの美上ゆう(安藤サクラ)のような女しか見当たらないのが、コーロキの周辺なのだから。

映画見る前から気になっていたのが

 この映画最初YOU TUBEで予告編をたまたま目にして「こんな映画誰が観に行くのだろう?私くらいしか居ないのでわ」と思ったんで観に行くことにしたのだが、公開前からムック本なんかも出てた所為か劇場ではそこそこ女性客が入っていた。実は観に行こうと思った理由のひとつに「ひょっとして映画後半からカジュアルな松本清張的サスペンスがあったりして」という期待があったの(笑)。コーロキとあかりに怒ったヨシズミとかさあ、いいぞお松本清張チック!と一人で盛り上がったのは良いんだが、話の締めはどうするのだろう・・・やっぱりアレは必要だろうアレはでも舞台は都内だしぃ、とゆうことだけ気になったのだ、そう松本清張に代表されるような日本の男女サスペンスに必要なのは「崖」じゃないですかあ、何といっても崖(笑)。男女間の激情を表す山の崖もよいけど(昔のあの頃映画 「事件」 [DVD]とかさ)松本清張原作だとなんと言っても海岸の崖モノ♡、諸行無常ってゆうか。実は2017年度に公開された邦画って「崖映画」が結構あったのだがこの映画のクライマックスにも崖は登場する。ぶっちゃけそこでアタシは狂喜したよ(笑笑)!!オサレな都会のど真ん中にも崖あったね~段差はスゴーく小さかったけれど、水はちゃんとあったし、哀れな男がちゃんと墜落していた。

ほろ苦い「サクセス」

 元から大根仁監督ファンの男性にはこの映画あんまり評判が芳しくないようなんだけど、その手のタイプほどラストは見応えあるんではないだろうか。まずコーロキはあかりには手痛く振られるけど、結局は仕事でもプライベートでもとりあえず成功を収めるんだよ、でも飛び上がる程の幸福感が感じられない。コーロキにはそんなつもりは無かったし、ただ好きな事がやりたくて名声が欲しかったわけでもないのに「マレ」に移動した時に自分には無理だと気後れした「センスが良いけど自然体」な業界人にいつの間にかなっちゃっているから。何だか嘘ついて生きているような気がしてしょうがなくてひとしきり立ち食いそば屋でコーロキは泣くんだけど、正確には「ためしにちょっと泣いてみる」んだよね。そんなコーロキの姿を冷徹な目で観察している「あかり」の表情で映画は終わるのだ。だからこの映画は終始ハードモード。あかりって女はもう存在が都市伝説て言っちゃって話終わらせているんですね。しかしこんな女世の中に居ますかね?でも日本の何処かには確実に居るんだろうな・・・と思わせる、結構リアル。少し前だと比較的高学歴で良いトコのお嬢さんで育った作家の小説やエッセイ等には登場するタイプの女でもあります。日本にだってエスタブリシュメントは有りますし、エスタブリッシュメントの家族一族が支配階級であり続ける為にはあかりみたいな娘が絶対に必要なんですね。自分が他人と比べて能力が抜きんでる必要は無いけど、抜きんでた能力の持ち主を自分に引き寄せてコントロールする能力は身につけないといけない、でもリーダーシップを取ってると気づかれちゃ困るからぶりっ子するという。ハリウッド映画に代表される日本以外の映画だと「ファムファタール」とか言ってポジティブに持ち上げますが、邦画だと隠微でなおかつ最も狡猾な悪女の部類になります。

 それにしても最近作の「SUNNY強い気持ち強い愛」の池田エライザにしてもそうなんですがちょっと度外れたスケールの女性のキャラクターを所謂「純粋日本人」には到底見えない容姿(水原希子池田エライザも両親の片方は海外出身者です)の女優に任せるのはまあしょうが無いとは言えますが、水原希子の場合は特に母親が(おそらく在日の)韓国人で父親がアメリカ人で幼い頃に両親が離婚しているというおよそ日本ではエスタブリッシュメントとは無縁の環境で表舞台に進出してきたはずなのに、この役なのね。皮肉だなあとは思ったりもしますが、その所為かあかり役の水原希子なんとも言えない孤高なる姿はちょっとだけカッコ良いなと思いました。

 

 

 

 

 

なんだか不運な女 ⑦ 「早春」のジェーン・アッシャー

 

早春 デジタル・リマスター版 [Blu-ray]

早春 デジタル・リマスター版 [Blu-ray]

 

 永遠の「犠牲者」たるヒロイン

 原節子リリアン・ギッシュジーン・ティアニーに(現在のパワー系美熟女の姿が信じられない)ロビン・ライトジャネット・リー・・・よく考えたらこのブログを最初で取り上げた映画ほどクラシックといえる名作でしかも存在自体が超難解なヒロインばかりだったのに何故よく考えずに「なんだか不運な女」とまとめてブログアップしようとしたのか今振り返ると自分でも分かりません。とにかく共通するのは彼女たちは全員とことん悲劇的で映画のなかでひたすら犠牲者だって事。「早春」も今回名前だけは30年前くらいから知っててやっとこの間早稲田松竹で観たばっかりでした。しかしヒロインのスーザン(ジェーン・アッシャー)は前述した不運な女達の中でも最も酷い目に遭ってますね。なんせ映画全編にわたって童貞の少年マイケル(ジョン・モルダー・ブラウン)中年高校教師(カール・ミカエル・フォーグラー)スーザンの婚約者(クリストファー・サンドフォード)と三人の男どもの性欲の的にロックオンされてしまって、あげくの果てにはDEEP END に血まみれで漂う・・・姿で映画終わるんだもの。さすがオフィーリアを生んだ英国映画のヒロインと言ってもいいのかな?でも脚本書いて撮ったのは現在ポーランド映画界を代表するイエジー・スコリモフスキが冷戦時代に亡命していた英国で制作しました。かのポランスキーとは永年の友達だってさ。(苦笑)

思春期の少年がひたすら「年長の女達にセクハラ」される話(21世紀基準による)

 早稲田松竹にはいつもシニア男性が来ていてこの映画もとりわけ観客が多く、マイケルの出くわす熟女たちのお色気攻撃や性の悩みに悶々とする姿にゲラゲラ笑っておりました。でも主役のジョン・モルダー・ブラウンって子役出身の美少年(この後ビスコンティルートヴィヒ デジタル修復版 [Blu-ray]に出演したくらいだよ)ですからね、スーザンも含めて雇い主の公衆浴場のオーナーは(立派な事を言ってるけど)若い従業員の容姿で楽ちんなビジネスやりたいだけだったのかもしれない。マイケルはいきなり中年女性客(ダイアナ・ドースと言ってUKのマリリン・モンローと評されている)に襲われるし。彼女は演技派のセックスシンボルとして有名だったのでガチで怖い、男からしても怖いのじゃないかな。スーザンはぱっと見マイケルを手玉に取って翻弄しているような様子にも取れますがおそらく彼女としては真面目に教育しているつもりなんだと思いました。多分マイケルの前の男の子たちもすぐに辞めていったのではないのかな。ただ彼女はマイケルに本当のところ何を教えたがっているのかが謎。実は彼女自身もよく分かっていないのかもしれないけど。ヒントとしてはマイケルは学校が退屈で中退してしまって十代で勤労始めた所謂労働者家庭の子だけど、穏やかに育っていて「ママが大好き」って未だに普通にやってしまうようなヤツ。対してスーザンは母親を亡くしたおかげで非常に不安定な心理状態で十代を過ごしていたっぽいという事でしょうかね。

Would you like to play a Foot Ball ?

 マイケルはスーザンに徐々に煽られて彼女を追っかけ回して半ばストーキングをするようになる。でもあんまりスーザンはマイケルの振るまいを気にしない・・・というかどうも詳しく把握していないし、マイケルの行動の意味が理解出来ないんだよね。真剣に自分が求められているとはどういう事なのかが彼女には分かんない・・・まあ理解出来なくてもしょうがないよ、これまで男性に大事に扱われた経験がまずスーザンには無かったから。スーザンと不倫関係にある教師(マイケルも教わっていた)ってのが酷いヤツで自分はスーザンの勤務先でやることやってたのをマイケルに見られたのに気づいて「彼女は公衆浴場の客相手に売春している」って平気で嘘つくような男だもん。(映画見る前に読んだんですけど「早春」を批評したブログの書き手は教師の言うこと真に受けてホントにスーザンはチップで売春してると思ったようですが)そもそもスーザンはセックスすらあんまり好きじゃないんだ。婚約者とのセックスで自分がそうだって初めて気がついた。でなきゃ婚約者に連れて行かれる映画が「性生活の〇〇」なんてスウェーデンのドキュメンタリーなんてなワケないでしょ。不倫相手と婚約者じゃセックスするのにも彼女に求めるものが全然違う。一回りほど年上の婚約者はちょっと強引だけど彼はスーザンの事が自慢だし彼女の主張をある程度聞き入れてくれて待っててくれる。映画途中までだとスーザンと婚約者が何を揉めているのか私には分からなかったけど、スーザンは女性としての自分にあんまり「自信」持ってない、自分が大切に扱われて当たり前だってのが信じられない・・・スーザンの心理の過程をそうやって推察してみるとマイケルが寄せてくる自分への憧れも彼女にとっては癒やされるものかもって気がしてきました。

(スコリモフスキが描く)1970年代夜のLONDONには「小ネタ」がいっぱい

 中盤スーザンが婚約者とデートしに、それをマイケルが追いかけていく時に描写されていく70年代ロンドンのナイトシーンも興味深いです。比較的裕福な若い人達が行く会員制のナイトクラブやクラブのすぐ近所にある風俗店(というか売春の店舗)、その前にあるホットドッグの屋台・・・とかなりカオス。その辺を風俗客のオッサン達やオシャレなカップル、スキあれば誰かに奢って貰おうとする十代の女の子達だとかw。風俗店には若い女性の等身大の看板があって顔はスーザンにすごく似ているけど彼女より巨乳であったりするとか。んでまたその看板をマイケル盗んじゃうとかw。風俗店では若い美女の等身大の看板で客を呼ぶんだけど店内の女性は皆看板よりぐっと太めのオバちゃん世代が中心だから盗まれるとえらい迷惑だったりするだとか。ホットドッグの屋台はイレブン・ミニッツ [Blu-ray]にも登場しててワルシャワの屋台店主もくせ者親父だったけど、ロンドンの屋台を仕切っているのは「やたら快活な独自の接客スタイルを貫くアジア系のイケメン」(クレイジーリッチに出てくるヘンリー・ゴールディングの親父か?ってゆうぐらいに似てるっww)で、要は屋台よりも背が高いからマイケルと目を合わせて接客するたびに屋台の柱をくぐって顔を出すって動きを繰り返すだけなのに、もの凄くおかしいの。もうカッコ良いホットドック屋の兄ちゃんが顔を向けてくる度ごとにカンフー達人だとか板前だとかやってるキビキビしたアクションこそがアジア系男性のかっこ良さのキモなのかもしれないって思いつつ、でも笑えるっていう演出。これを現代では蔑視とみるか、リスペクトを込めて異なる人種の個性を見い出したさすが伝説のカルト映画監督の先見の明なのかは断定できませんが、是非見て欲しいです。

ポール・マッカートニーの元婚約者

 ジェーン・アッシャーについては日本でだとポール・マッカートニーと婚約して結婚寸前で分かれた・・・ってのが一番広く知られていますが、彼女自身はポールよりずっと「良いとこの家」で育ったお嬢さん。家族は両親が音楽教育を教えていて妹は舞台女優、彼女自身も演劇学校でしっかり学んだ女。だからスーザンの役柄についても取り込まれずに自分の中で消化して演じる事が出来たと思います。当時の若い女優さんだと役柄の境遇があまりにも自分に近すぎると演技と日常が分離できずにパニックを起こす事もあるので、かなり悲惨な境遇の役を比較的上流階級出身の方が演るケースが多かったみたい。ゲラゲラ笑っちゃうエピードの後にスーザンが不倫相手と対決して今まで彼女の身の上に起きた事がうっすらと解ってきてそれまで笑ってたオッさん達は皆青ざめてしまう。不倫相手のオッさんは終始暇なわりには良い車に乗ってたりやたら洒落た格好している気がしましたが、コレも奥さんの実家が裕福で尻に引かれてる日常の鬱屈を紛らわす為だけにバージンで十代の女学生ばっか狙ってたんだなってのも感じ取れます。そしてやっと一見落着と思えた瞬間に悲劇が起きる。何故にこんなラストになんのかなあ?って考えてしまいますが、かのロリータ (字幕版)と双璧と捉えても良いかなと。思春期の少年少女が性の興味に捕らわれて身動き出来なくなるのは自然なことかもしれませんが、相手が少年少女よりも圧倒的に年長者なのは問題が多い。なんと言っても対等な関係ではないからね。スーザンは過去の自分が被った性被害を今度はマイケルに対して行ってしまった、スーザンとしては優しさだと思った事がマイケルにとっては超残酷な体験でしかなかったの。だって上手くいかなくてマイケルは「ママ・・・」ってしくしく泣くんだもん。女の子が貞操を失いそうになった時に「ママぁ」って叫ぶのが定番だった時代があったのね、かつて。それとおんなじだって暗に言ってるシーンなんだよ。だからフェミニストに限らずいろんな人に「早春」て映画は今こそ観た方が良いって言いたい。私も長いことビビってたけど観に行って良かったわ。

 んでこの映画1970年に撮ってたそうです。丁度この頃にクイーンにフレディ・マーキュリーが加入しました。5年後にボヘミアン・ラプソティーで「ママ、僕人を殺したんだよ~」って歌うんですが、映画のマイケルはまさにこの唄のまんま。

 

 

 </p>

 

お祓い/Purificationされる女③ 「クレイジーリッチ!」のミシェル・ヨーとコンスタンス・ウー

 

 

この映画の最大の謎とは?

 それはヒロインのレイチェル(コンスタンス・ウー)の彼氏で王子サマたるニック(ヘンリー・ゴールディング)の父親が一切登場しないことです。でも誰も彼を父親不在の家庭で育ったマザコン男とは言わない、言わせない所がスゴイところなの。映画の冒頭に「中国/Chinaは眠れる獅子だ。この眠れる獅子が目を覚ませば世界を震撼させるだろう」というナポレオンの言葉が紹介され、ニックの母であるエレノア(ミシェル・ヨー)が幼いニックを連れてずぶ濡れでロンドンの老舗ホテルに入ると人種差別的な対応をされるのですが、そこのシーンの「落ち」でニックの父親のすべてを語る・・ということになってるからです、「三国志演義劉備玄徳や「水滸伝」の梁山泊のリーダーのように「何がエラいのかはハッキリしないがとにかく力があっていちばん偉い人」って東洋の英雄の典型なのね。(ぶっちゃけ西郷隆盛も典型的な東洋の英雄のタイプ、とにかくあの人は偉いんだからきっとすごいのよ。だから江戸城無血開城したのよねってだけだったんですが)だから大ヒットしたUSに限らず日本でも比較的男性陣の方がこの映画よく腑に落ちるし単純に気持ちよくなれそう。女性の方は私も含めて実はあまりシンデレラストーリーとしての「キモ」の部分が理解出来てないところが有ります。だから映画鑑賞直後は「どこの国のお金持ちも結婚て大変そう」以上の感想が無い。抽選でプレゼントあげるから感想文書いてくれと言われても正直困るでしょう。原題は「Crazy Rich Asians」。この「Asians」は何を指すのかで日本を始めシンガポール等のアジア諸国やハリウッドのアジア系の人々の間でもめた事でも話題になりました。

 

ASIANSって誰のこと?

 それからこの映画公開前から「なんで原題通りクレイジーリッチアジアンズにしないんだ。日本人は自分達がアジア圏に住んでいるって自覚が足りないんじゃないのか」とか映画ポスターがUS版と比べて役者の肌をやたらと色白にして不自然とか、いうクレームが付いたりしました。シンガポールでは金持ちの中国系住民以外が出てこないのでスゴイ不評だったりとか・・・ちょっとどう受け入れて良いのか悩んでしまうトコですね。で、観るとASIANS=華人/華僑のネットワーク社会であるというのがはっきり分かります。私のような日本人にはUSや韓国と同様によく知らない異国の話でしかない、華人社会=中国本土では決して無い独自に作りあげた「文明」の域まで行ってるかも、みたいに感じたので、へーってなるだけです。顔が似ている分より文化の共通点に気づかなかったりする場合もありますしね。だからアジアに住んでいながらアジア人の意識がない日本人偉そう・・と「クレイジーリッチ」観るまでは思う人も、結局日本人ってアジアの中では常に傍流で、マイナーな存在なだけだったのに思い至りますから、そう自意識過剰にならなくても(笑)。どのみち日本じゃあんなスケールのデカい金持ちがいないんですから。>何代も続いた金持ちの「家」てのがね。

 

シンデレラコンプレックスとシンデレラになろうの違い

 1981年にマレット・ダウリングのいうUSの作家が書いたシンデレラ・コンプレックス―全訳版という本は大変話題になりまして若い女性が「いつか白馬に乗った王子サマが私を迎えに来てくれる」と夢見て男性に対して依存願望を募らせる事をそう呼んだのさ。日本でも相当な反響があり男女雇用機会均等法の成立前夜だったこともあって日本のフェミニストの学者や心理学者の論文などがたくさんあったようです。日本の男性達はと言うと「コンプレックスは男女お互いサマにあるじゃん」てな歌詞を阿久悠が書いたりしましたが、「シンデレラコンプレックス」という概念自体には特に同意をするでもなくかと言って反論するでもなく定着してしまい、シンデレラといえば男に依存する女のアイコンにまでなって21世紀の現在でも意識を引きずっている状態です。んでもって御説が誕生したUSの方はどうかというとシンデレラのキャラを自らの運命を切り開くタイプなんだとイメージを変質させた強力なアジテーションが行われ今や日本人の描くシンデレラ像とは著しく異なっております。日本でも90年代から遅ればせながら「王子サマを待ってるだけではなく自分で探しに行こう」みたいなコピーが時々載りましたが、却って「シンデレラになりたがる高収入のクセに自分以上の年収の男と結婚したがる女はクソ。むしろビンボーな男と一緒になって助け合うべきだろ」という独身男性の意見もあるくらいなので、どっちにしろ日本女性のシンデレラ指向は現在極めて低調です。そういう日本事情を踏まえて「クレイジーリッチ」の世界にあってウチらには絶対ないもの、って何だろな?と深く考えると、やっぱり日本人は華人たちよりも動産/人的財産(personal property)に関する理解力、分析力に徹底的に欠けているかも・・・でしょうね、やはり。だって終盤のレイチェルとエレノアの麻雀対決からレイチェルとニックの結婚が許されて結ばれるくだり、私最初まったくワケが分かりませんでしたから。日本の婚活業者から見てもレイチェルの振るまいは理解不能だと思います、まず破談しかあり得ないですよ。エレノアに「彼(ニック)がもしいつか幸せな結婚をして子供が生まれたら私のおかげかもしれないと思ってください」って言うか?日本基準からしたらぶっちゃけ酷く嗤われます。

 

「ベストを尽くす」の限界、Japanese と Asians の違い

 レイチェルは経済学者で専門がゲーム理論。彼女を有名にした学説が映画の最初に紹介されるのですがその内容が「ギャンブルの時、心理的に追い詰められてパニック状態になったプレーヤーはとにかく焦って負け札をつかむ」というもの。本来ならニック本人を説得する為に「アナタがもし幸せな結婚をして子供が出来たら私を思い出して」と言うところを、あえて母親のエレノアに告げる事で「パニックを起こさせてレイチェルという負け札をエレノアに掴ませる→私/レイチェル以外の女と結婚してニックが幸せな家庭を作れると思う?彼が家を捨てても良いって言ったのを私断ったんだからさ」とゲームのカードを切った。まあこの辺のシーンについてもホントはビジネスやフェミニストの専門家がもっと詳しく分析した方がよっぽどこの映画深く考察出来るような気がしますが、私などにはとても無理なので日本だとレイチェルの「暴挙」がどう彼氏のお母様に受け取られるかだけ考えてみましょう。♡

a) 言ったとたんにお母様に罵倒し尽くされる、もしくは全部言わせてもらえない・・・毒親率が高そうですがおそらく低めに見積もっても6割方はそうなんじゃないかと。後々まで「あの娘の捨て台詞は笑えた」と周囲や親戚中に話をばらまき息子を心底腐らせる。下手すると息子がお家の繁栄の息の根を止めるやもしれません。だから日本の婚活業者が「クレイジーリッチを参考にしろ」とはまず言わないと思います。

b) お母様が相当賢いか賢明故に父親と一緒にレイチェルに対応し「今まで息子と付き合ってくれて有り難う。おかげで彼は成長した。アナタこそウチの息子なんかの事はさっさと忘れて幸せな結婚をして下さい。ついでに息子と交際していた過去などは他人にしゃべったら損するだけだよ」と言って手切れ金&口止め料を弾んでくれます。なぜなら日本だとレイチェルタイプの才女は夫を見つける前に銀座のクラブのママだとか年商〇億円の「女性向け隙間ビジネス」だとかを立ち上げて成功してしまう可能性が高いからです。金持ちで有名になった女性が自分の息子との過去の交際を公言してしまうと後々面倒な事になって、親の言うとおりに結婚して家庭を持った息子に悪影響を与えてしまうのでここはお金で解決するっ。

c) では映画のように「ごめんなさい、ウチの息子との結婚を許すわ」が日本のお母様の場合は無いのでしょうか?おそらくそれって日本には「何故クレイジーなほどリッチな一族」存在しないのか?にも関わってくる問題です。とにかく人的財産/個人の能力と可能性について重要視しないのが日本の富裕層の欠点。むしろ個人の能力には限界があるのだからある程度まで達してれば皆同じ、インフラとしての家族こそが日本の富裕層の財産、付加価値ある不動産万歳!・・・なんであります。日本国内だけでやってるといくら外国人が流入しようがソコだけは「和風化」しそうな予感さえする。(笑)

 母親のエレノアにしろ完全にレイチェルとニックの「個人のポテンシャル」に完全な満足は到底していないはずですが、(ただしレイチェルの育ちと培った能力を「時間をかけないで一族が得られる知識」と判断している可能性は有る)二人の決断を信じないとクレイジーリッチ一族の命運が尽きてしまうかもしれない。たとえ結婚が失敗したとしても自分でした決断を引き受けていく事が一族の繁栄を続ける道なのです。翻って我が国Japanはというとクレイジーな程リッチ、ではなくクレイジーだからリッチなんでありまして、b)で彼氏と別れたやり手女性がリッチになって思いっきりジミー・チュウを買い集めたりするとか、a)で毒親に愛想が尽きた御曹司が一発逆転で事業を立ち上げて親を抜くほどの巨万の富を築き、財産を宇宙ロケット開発やら月面観光旅行に女優のガールフレンドを連れて行くとか行かないとかの話になっちゃう。シンデレラになるには「ベストを尽くす」だけで良いのだったら人財のポテンシャルを計る「自信」が持てない日本人にとっては王子サマや王女サマが居なくてもシンデレラにはなれるって事なのかもしれません。まあ現在の日本では野心家で向上心の強い男女はそれぞれシンデレラより「ナイチンゲール」「マザーテレサ」になりたがるんじゃないですかね。そんなつもり無かったのに気がついたらタイガーマスクになっちゃてるとか。ドラゴンよりは日本人は虎になりたいってゆうところがあるみたいなんですが本物のトラは現実のセカイでは絶滅寸前なんですよね。

 

 

 

お祓い/Purification される女 ② 「500日のサマー」のゾーイ・デシャネル

 

 恋の師匠はハン・ソロじゃなかった

 観た事は観たのですが、実はあまり記憶に自信が無い映画。なんたって一般映画ファンの感想や批評こそ(特に女性は男目線の映画でよく理解出来ないのだと主張するし、男性は女はこの映画皆好きなんだろと拗ねる)が面白くて、自分自身の映画の印象がついぼやけてしまってるのさ。で、主人公の男女二人がIKEAでデートするシーンだけは皆憧れるっていう(笑)。あとヒロインのサマー(ゾーイ・デシャネル)には深田恭子前田敦子+パヒュームのあーちゃん・・・という雰囲気が感じられ、オバちゃんの私には「今どきのモテる普通っぽい女の子の流行は何処でもこんなものなのだろうか?」というやや明後日の方向へ頭が跳んでしまいました。サマーは足のサイズの設定が26㎝だそうで、そこも深キョンと一緒なのだ・・・という余計な情報は覚えているっ。脚本家自身が大学院時代のエピソードを元に創作されたオリジナルストーリーで、やっぱり映画脚本について専攻しているだけあって様々な名作映画のオマージュが感じられるのですが、一応主人公トムにとってのヒーローはSWのハン・ソロとやはり卒業 [Blu-ray]でのダスティン・ホフマンの二人になるのでしょうか?・・・もっとも映画スタート時でのトムの恋の師匠はもっぱらハン・ソロです。んで映画最後まで観るとジョセフ・ゴードン・レヴィットがスター・ウォーズ/最後のジェダイ MovieNEX(初回版) [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]で声だけのカメオ出演を果たしたのかもよく分かります。失敗は成功の元だって伝えたかったとかw。

 

しかしトムって野郎は怠け者だよね

 ていう第一印象だったし、終始その印象が変わらなかったよ私は(笑)。だから恋のチャンスを失うのも「そりゃそうでしょ」としか感じない。現実にこんなカップルがいてサマーの話を聞いてたら「よっぽどの怠けぶりに愛想が尽きたんだね」と結論出しそう・・・というかトムみたいな知人が昔居たような気がしてきた・・・IKEAでデートばっかりしてたクセに将来の展望が何故ゼロなのだ?何故それなのにIKEAに行きたがるんだよトムっ!こんなにIKEAIKEAと連呼し続けてるのが自分でも馬鹿らしい。それっくらい私のようなオバサンには「近頃の若い男は何考えとるのか分からん」な行動なの。サマーだって「私だったら結婚願望丸出しだと思われそうでIKEAでデートしたいなんて言わないわね多分」て内心感じてたと推測するよ。トムに初めて声かけられた時も「ザ・スミス聞いてるの?」でエラく食い付いてくるんだけど、にサマーはソレが不思議でしょうがなかったんだと思う。日本だと(ひょっとしたらUSでも)そんな調子で近づいてくる男と気前良く付き合ってくれる娘そういないのさ。だからトムがサマーと付き合ってデートを重ねたのはホントにラッキーな事だったと思う。だってサマーはトムにちゃんと興味をもってくれてたじゃん。

 

おそらく「前の彼氏とは違うのね」だけだったと思うよ

 トム目線で二人の交際が描かれていくので、サマーの奔放な(主にセックスに関しての)行動についていけないと思う人は多いでしょう。でもサマーは最初から「本気の恋はお断り」で理由も「自分の両親が離婚した事がトラウマ」てはっきりトムに話している。サマーのそれまでの男性経験っておそらく彼女の言葉を真に受けた相手ばかりだったんでしょう。だから本当にセフレしかいなかった。(映画でなくて現実の話で恐縮ですが)彼女の前の彼氏と知り合いだった為に「あの人はああだったのに何故アナタはそうなの?男の人って普通皆そうするもんじゃない」とセックスについてガチで比較して問い正され、困惑したという男を私知っとりますが、素直で男性に好奇心を抱いている女性と付き合うとそういう目に遭うのかいな。何せその知人の彼女の両親も離婚して父子家庭で育ったそうです(笑)。だから本当に実際にあった事が映画になってるんでしょうね。

 

皆いろいろな映画のピースを見つけ出す、らしい。

 後半トムとサマーは一緒に名画座に出かけて「卒業」を観てから話が急展開していきます。オバサン族からすると、なあ~んだやっぱり結婚願望が「重い」娘じゃなああいと意地悪感想になってしまいますが、それでもサマーはどっか素直に男の人と対峙しているからああいう反応(映画鑑賞後に一人大泣きする)になるんでしょうね。男女が交際するにはどっかで未来、出口路線がないとやはり自然消滅するしかありません。トムの妹(クロエ・モレッツ)が説教する通り「楽しい事ばかり考えている」だけだとカップルは先がない。トムはサマーに「しばらく距離を置きましょう」と言われ数ヶ月そのまま会わないでいたものの、休暇旅行でサマーと偶然再会しサマーの友人の結婚式に混ぜて貰ったりして一時また楽しいデートの時間も過ごします。そこでまた一瞬トムはサマーとの復縁が「叶う」と勘違いしたりするんだよね~。で、その後一転急降下でトムにサマーが婚約したという報告が一方的に届くのだった。この辺の妙に昂揚しているようなのに淡々とした展開やトムのなで肩でいつもベストを着ているモラトリアムちっくな服装にアニー・ホール [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]の影響を見る方々(町山智浩氏とか)もいらっしゃるのですが私は分かんなかった、というかソレ聞いても自分はウディ・アレンの映画にとんと興味がないんだなと改めてそっちの方に気づきました。(ちなみに例のスキャンダルの所為ではないと思うん・・・だけどな(..;)

 

それにつけてもトムっはどこでしくじったのか?

 これは「500日のサマー」観た男女問わず様々意見あると思いますが、私個人はやはりトムのスケッチをサマーが見つけたシーンでのトムの振るまいが一番「いけなかったのだ」と判断しますね。実は最もトムにとってのアンタッチャブルな部分にサマーが触れようとして、トムが拒絶したわけだから。サマーはサマーでトムに拒まれた強烈な体験があったのですよ、だからその後一緒に「卒業」観に行って大泣きするんだもの。サマーはトムの建築家になりたい夢の中に入れてもらえなかったのよね。別に夢でなくとも良いのですが女性は男性に「今一番こだわってる事、ビジョン」を話してもらうと案外コロッといきます。まああくまでも結婚したくなるってことなので語る男性にとってもリスキーなんですが。だから女性はいい男で結婚の準備が出来ている状態の相手と結婚する、それだけのことです。からしょうがない、トムは前に進む為にユルいメッセージカード会社から建築事務所に転職しなきゃいけない。自分があきらめきれない夢の末席に入れても良いような新しい娘オータム(ミンカ・ケリー)に照準会わせようとすすんですね。コレがまた高嶺の花掴みな雰囲気で終わるので、懲りない男って皆は思うのでした。

 

 

 

 

 

お祓い/Purification される女 ① の後編 「SW/最後のジェダイ」のデイジー・リトリー

 

 SW外伝製作を見直すんだそうだ。

 当初ジョージ・ルーカスに「二十年間で6作品しか製作しなかったルーカスは馬鹿だ」とまでディズニーの人たち言っていたらしい。(笑)それが今回の路線変更だそうな、当然て気もしますがね。だって「最後のジェダイ」についてだって未だにSWファンは上手いこと消化できていないんだからあ。それでも何とか消化の糸口を探して賛否両論の「より否定派」の意見もちょっと参考に読んでみたのですが、特徴的なのは主な登場人物の造形についての悪口をそれほど皆言っていない。特にカイロ・レン/アダム・サンドラーについては否定派閥系の男性ファンの間でも大人気。それが私には不思議でしょうがない(笑)。レイとの失恋エピソードと終盤の怒り狂い方には結構共感しているじゃないのさあ。反乱軍が映画全編通して逃げているばっかりで頑張って企業の役員でキャリアのピーク迎えます風な中年女性(ローラ・ダーンの事ね)が殉職して終わるって何なんだよ!な反乱軍の戦闘のやり方に怒っているヒトが多かったのも、解る気もするんですが、いやスターウォーズなんだよスタートレックじゃないしぃ・・・と同時に私思っちゃった。ひょっとしたら否定派の彼らにとってSWにおける譲れない一線って「SF映画スペースオペラの金字塔」なのかもしれませんね。それじゃ今回の監督ランディ・ジョンソンが「最後のジェダイ」で目指したコンセプトが気に入らないの無理もないかも。だってスターウォーズのジャンルは「映画そのもの」てのが「最後のジェダイ」のコンセプトだったので。SWを作り続ける為にはソレしかもう方法はなくて、ソレを観た古参のコアなファンが商業主義に走ったと嘆くのは正しいっちゃ正しい。しかし出来上がった映画は商業主義とはかけ離れた仕上がりとしか思えなかった私。

そんな理力/フォースの使い方してもいいのかよ!!

 と想いつつもカイロ・レンとレイとの時空を超えたやり取り、なのかそれとも「まるでご近所同士の幼なじみのようにネットのスカイプでやり合う男女」て言ったら良いのかSWも40年続くとテレパシー交換の描写だって非常にドメスティックになるのでありました。そして乙女の心の窓はSlide door/引き戸なんですね、そこだけはきっちり和風という(笑)。ここでもSWは日本、というか日本映画にこだわる。レイとカイロ・レンが交信しようとすると何故だか四角い壁が何層に重なっていて一枚一枚Slideして取り払っていくのも和風です、二人の心のブラックボックスは互いに日本家屋のように襖で仕切られているようなのさ。ここのシーンが物語の中核にあたるってだけでなく抽象的な事柄をよく簡潔に説明するんだなあ、結構スゴくないかあ?・・・て鑑賞直後には漠然と感じただけだったのですが、一日二日経って振り返ると、ひょっとしてアレか?日本のあのお方かい?って晩春 デジタル修復版 [Blu-ray]のラスト近くのシーンとか麥秋 デジタル修復版 [Blu-ray]での紀子さんが友人と一緒に料亭の襖を覗くシーンを思い出しちゃったのさ。どっちも相手の男性が「壁とか襖」として表現されていて話には上がってくるけど本人の登場は省略されているのね小津映画だと。それが「最後のジェダイ」では「とにかく何か着てよ!」てレイが叫ぶ、壁や襖の奥にいるカイロ・レンとしてついに可視化されるのです。さすがは理力/フォース!って言ったら良いのか、まさかそんな風な使い方するのかとか、日本映画のapplicationが止まらない。もっとも監督のライアン・ジョンソンって人はインディーズ映画時代から名作映画からの引用が多い所謂正統派の映画ファン出身者のようなので引用は小津安二郎だけに止まりません。だって小津はOZUですから。

 「最後のジェダイ」の中では、おず/小津/OZUはそれ以外にも鏤められています。それこそ東京ディズニーランドの隠れミッキーのように。

ジェダイマスターのヨーダでも「OZUが復活」

 「最後のジェダイ」のクレジットではヨーダに「フランク・オズ」てデカデカと出てきまして、私はギョッとしたのですがSWファンの友人に言っても「だから何なんだ今回はただの声優出演だろ」と言われてしまいました。でもおそらくヨーダはCGアニメではないでしょう。顔だけモーションキャプターであっても今回のヨーダの含み笑いは怖かったもん。SW参加以後イン&アウト [DVD]ペテン師とサギ師/だまされてリビエラ [DVD]とかのおっかないコメディ映画を撮るようになったフランク・オズが再びマスターヨーダになって還ってくるって、教えのスパルタ度が時間をかけてのしかかってくるようです。んで映画鑑賞終了直後はヨーダの事ばっか気になってたのでしたが、しばらくしてTVでワイルド・アット・ハート [Blu-ray]やってたのをちょっとだけ目にして、あああそっかあぁぁ・・・と気がついたのですが、「最後のジェダイ」のローラ・ダーンって終始「オズの魔法使い」で有名な南の魔女のコスプレみたいな格好で登場するんですよね、なんで反乱軍でもあんな浮いたロングドレス姿なのがサッパリ理解できなくてずっと悩んでいたのでした。「ワイルド・アット・ハート」でのローラ・ダーンオズの魔法使いのドロシーみたいな役柄だったから、すっかり忘れてたけど。デビット・リンチはかつてデューン/砂の惑星 日本公開30周年記念特別版 Blu-ray BOXも撮ってたしねえ。

 しかし「デューン砂の惑星」のケースが典型的だったのですが、緻密なマーケティングに基づいた商業主義映画なのか、それともヤング(オタク)の懐をあてにして金かき集めて作った博打としての大型カルト映画なのかよく分からないまま公開されてた80、90年代のSF名作映画達と似たような作り方を思いっきりやってるのに、SW8で商業主義に完全に飲み込まれてしまったというのは正しい指摘なのか誤っているのかは私判断出来ませんが、とにかく隔世の感があるなあ、とは感じます。